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既読の向こう側 5

五話 既読の外


 ドアの向こうで、何かが待っている。

 確信というよりは、もはや一つの物理的な事実として、その気配がそこにあった。

 視線は、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、部屋の入口へと吸い寄せられる。安っぽい白い木製のドア。経年劣化で黄ばみ、取っ手だけが鈍い銀色の光を放っている。普段なら一日に何度も無意識に通り抜けるその境界線が、今は異様に鋭い輪郭を持ち、世界を「生」と「死」に分かつ断頭台のように見えた。

 開ければ、終わる。

 この閉塞した恐怖も、狂った電子音も。だが同時に、今の「こちら側」で辛うじて保たれている私の輪郭も、すべてが泥のように崩れ去るだろう。

 それでも――開けなければ、終わらない。逃げ場のなくなったこの箱の中で、あいつに魂を削り取られ続けるだけだ。

 机の上のスマートフォンが、呼吸をするように静かに明滅している。


『ドアあけて』


 その五文字が、網膜に焼き付いて離れない。

 私はまだ、既読をつけていない。その二文字が灯った瞬間、何かが確定し、後戻りのできない歯車が回り出す。そう分かっていても、時間の問題であることも理解していた。

 向こうは、無限の忍耐を持って待っている。待ちながら、笑っている。

 この部屋の、影の落ちた隅から。ドアの向こう側の、冷たい廊下から。

 あるいは、もっと――私のすぐ足元から。

 肺に吸い込む空気は氷のように冷たく、重い。

 何かが大気中に混ざっている。あいつの腐敗した執着か、それともこちらの正気を溶かす毒か。

 ここまで、来てしまった。

 無視は通用しない。逃げても、死という回線を通じて追ってくる。

 機械を壊しても、窓から投げ捨てても、あいつはもうデバイスという依代を必要としていない。すでに「外」へ出ているのだ。

 ならば。

 飼い慣らされた獲物として選ばされるのではなく、自らの意思で、この地獄の幕引きを選ぶしかない。

 私はスマートフォンを手に取った。

 画面をなぞり、その文字を見つめる。そして、震える指でトーク画面をタップした。


 既読。


 小さな、あまりに小さな変化。

 だが、それが開戦の合図となった。即座に、画面が震える。


『ありがとう』


 その一文は、やけに素直だった。

 心底嬉しそうで、安堵したようで、だからこそ逃れようのない、決定的な響きがあった。

 私はキーボードを展開する。

 指先の震えは、奇妙なほどに収まっていた。脳が極限の恐怖を通り越し、氷のような静澄さに達している。


「お前は鷺沢じゃない」


 一文字ずつ打ち込み、送信する。


 既読。


 コンマ数秒、あいつが答える。


『知ってるよ』

『でも、そう思っていたほうが楽でしょ?』


 心臓を、直接冷たい指でなぞられた気がした。

 図星だった。私はどこかで、鷺沢であってほしいと願っていた。

 あいつの幽霊であってもいい。あいつが、どこかで生きていて、悪戯で連絡を寄こしているだけだと。そんな都合のいい、救いのある可能性に縋っていたのだ。

 その心の「既読」を、あいつは見逃さなかった。


『ねえ』

『あけてよ』


 ドアを見る。変化はない。

 だが、ノブの隙間から、澱んだ影のようなものが染み出してきているのが見えた。

 私はゆっくりと立ち上がった。

 一歩、踏み出す。

 フローリングが軋む音が、静まり返った部屋の中で、落雷のように響く。

 二歩、三歩。

 ドアに近づくにつれ、空気の重圧が心臓を圧迫し、肋骨が軋む。酸素が薄い。

 ドアの前に立ち、冷え切った取っ手に手をかける。

 金属の冷たさが、神経を伝って脳髄まで一気に駆け上がる。

 その瞬間、手の中のデバイスが、最後の一撃のように激しく震えた。


『開けたら、会えるよ』


 理解した。これは誘いではない。

 最終的な意思確認であり、契約の完了だ。

 私は目を閉じ、かつての鷺沢を思い出す。

 一緒に馬鹿なことで笑い転げた日々。不器用に目を閉じていた、あの日。

 あれが本物のあいつだった。だから、今ここにいる「それ」は、絶対に、違う。


「お前は、こっちに来られない」


 目を見開き、取っ手を強く握りしめた。

 引くのではない。私は、扉を「閉める」方向へ、渾身の力を込めて押し込んだ。

 もともと閉ざされているドアを、さらに向こう側へ、存在を否定するように押し付ける。

「拒否」という形を持った、私の生存意志だ。

 画面に返信が閃く。


『そうかな』


 同時に、ドアの向こうから音がした。


 コツ。

 コツ。


 ゆっくりと、骨の指で硬い木を叩くような、乾いたノック音。

 私は歯を食いしばり、床を踏みしめてドアを押し続ける。

 開けない。死んでも、その隙間を作らせない。


 コツ、コツ、コツ……


 音が次第に速くなる。苛立ち、焦り、餓えた何かが壁の向こうで身をよじっている。


 コツコツコツコツコツコツ!!


『ねえ』

『なんで』

『どうして』

『開けて』

『開けて』

『開けて』

『開けて』


 画面は狂ったように連打される文字で埋まり、白い光が激しく明滅する。


 ドン!! ドン!!


 ノックは激しい衝突音へと変わり、ドアそのものが悲鳴を上げて震える。

 だが、私は退かない。全身の筋肉を硬直させ、あいつの浸食を拒み続ける。

 不意に。

 音が、凪いだ。

 狂ったような打鍵音も、ドアを叩く音も、潮が引くように消えていく。


『……』


 点だけの、虚無のようなメッセージ。それが最後に表示され、画面はそのまま動かなくなった。

 ……終わったのか。

 私は、扉を押し続けたまま、しばらく動けなかった。

 力が抜けない。一分、五分、十分。

 どれほどの時間が流れただろうか。

 ドアの向こうからも、手の中からも、音も気配も消え失せていた。

 私はゆっくりと力を抜いた。

 ドアは、閉まったままだ。何事もなかったかのように。

 私は、よろめきながらベッドへと座り込んだ。

 肺がようやくまともな空気を取り込み、激しい耳鳴りが遠のいていく。

 そのとき、ふと手元の画面に目が止まった。

 トーク画面の最上部。「鷺沢」と表示されていたあいつの名前が、滲むように歪み始めた。

 デジタルノイズが走るように崩れ、やがて――空白へと変わった。

 送信者が消え、ただの無機質な履歴だけが残る。

 終わった。

 私は、安堵にも似た虚脱感の中で、画面を閉じようとした。

 その瞬間。

 ぽつり、と。

 送信者名のない、空白の通知が一つだけ現れた。


『既読』


 短い一語。

 それを見た瞬間、私の背筋に、今夜一番の寒気が走った。

 私がメッセージを読んだのではない。

 あいつが、送ってきたメッセージですらない。


 これは。

 向こう側が、こちら側を。

 この「私」という存在を、すべて読み終えたのだ、という宣告。

 部屋の空気が、わずかに揺れた。

 視線を、感じる。

 スマートフォンの画面ではない。

 ドアの向こう側でもない。

 もっと、近い。

 私の、すぐ真後ろ。

 あるいは、私自身の影の中。


 振り返ることも、逃げることもできず、私はただ、そこに座っていた。


 既読の向こう側にあった「何か」に、内側からすべてを読み尽くされてしまったまま。

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