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既読の向こう側 4

四話 着信


 鳴らないはずの音が、鳴った。

 それは不快な振動ではなく、静寂を切り裂くような、明確で、暴力的なまでに澄んだ着信音だった。

 無音に近い状態にまで音が削ぎ落とされていた部屋の中で、その電子音は異物として鳴り響いた。最初の一音が空間を叩いた瞬間、空気の粒子が震え、私の肌を無数の針で刺すような違和感が走った。音が周囲に馴染まず、現実の裂け目から無理やり侵入してきている――そんな生理的な嫌悪感が脳を支配する。

 私は、悲鳴を上げた直後の歪な姿勢のまま、金縛りにあっていた。

 喉は乾ききって大きく開いたまま、肺の奥から熱い息だけがヒクヒクと漏れ出す。耳の奥では、自分の血流が濁流のような轟音を立て、狂ったように脈打つ鼓動が視界を小刻みに揺らす。

 着信音は、止まらない。

 一定の、あまりにも正確なリズム。逃げ場を塗りつぶすように、音は部屋の隅々まで満たしていく。

 視線が、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、ゆっくりとスマートフォンへと引き寄せられた。

 画面が、眩い。

 最大輝度で発光する液晶。そこに浮かび上がる着信画面。

 発信者の名前。


 ――鷺沢。


 表示は、これまでと変わらない。

 だが、文字を送るだけの「メッセージ」とは決定的に違う。これは「呼び出し」だ。

 明確な殺意に近い意志を持って、こちらに応答を求めている。

 私は、動けない。指先が、痙攣するようにかすかに震える。

 出るべきか。出てはいけない。

 答えは、細胞の一つ一つが理解している。出るはずがない。

 だが、なぜだろうか。出なければならない、という強迫観念が、どろりとした脂汗となって額を流れる。このまま無視し続ければ、この部屋の四方の壁が崩落し、何かが決定的に取り返しのつかない形で悪化する。そんな漠然とした、しかし絶対的な確信が私を追い詰めた。

 着信音が、不自然に大きくなった気がした。

 いや、違う。ボリュームの問題ではない。

 距離が、近づいているのだ。

 音源はもはや、ベッドの上に転がったスマートフォンの中だけではない。

 空間そのものが、音を放っている。

 壁から。床から。そして、先ほどから蠢いている背後のカーテンから。

 同じ電子音が、コンマ数秒ずつ遅れて重なり、頭蓋骨を直接揺さぶる多重放送となって響き渡る。

 私は、逃れるようにスマートフォンに手を伸ばした。

 画面の中で、「応答」と「拒否」のアイコンが、脈打つように光っている。

 指が、その上で静止した。汗で指先が滑り、指紋の溝を嫌な感触がなぞる。

 着信音が、途切れた。

 ぴたりと。唐突に。

 一瞬の静寂。

 それは耳鳴りさえも許さないほどの濃厚な無音だった。私は、肺に溜まっていた泥のような空気をようやく吐き出した。

 終わったのか。そう思った、その直後。

 画面が、切り替わった。

 指は一度も触れていない。だが、通話は終わっていなかった。

 勝手に「通話中」の画面へ遷移し、上部のタイマーが静かに刻まれ始める。


 00:01

 00:02

 00:03


 出ていない。ボタンにも触れていない。

 それなのに、回線は繋がっている。

 私は凍りついたまま、その画面を見つめた。

 耳に、何かが触れた気がした。

 いや、物理的には触れていない。だが、「近い」のだ。

 通話の向こう側の世界が、私の耳朶のすぐ数ミリ先にまで迫り出しているような、圧倒的な近接感。

 そして。

 ノイズが、流れ始めた。

 ざあ……、ざあ……という、砂嵐のような、不規則で乾いた波。

 そのノイズの層を掻き分けるように、何かが混じり始める。

 微かな、声。

 最初は、ただの風音か、ハウリングのようにしか聞こえなかった。

 だが、それは徐々に肉感的な輪郭を持ち始める。


「……てる?」


 かすれた、喉が潰れたような音。

 湿った息がスピーカー越しに伝わってくる。


「……きてる?」


 聞きたくない。鼓膜を引き剥がしたい。

 だが、耳は呪われた磁石のようにその声を拾い上げてしまう。


「……きてるでしょ」


 その瞬間。

 通話中にも関わらず、画面に新しいポップアップが表示された。


『聞こえてるでしょ』


 文字と、声。

 同じ内容、同じタイミング。

 内側の意識と、外側の感覚。その両面から、あいつに挟み撃ちにされる。

 私は、スマートフォンを耳から引き剥がそうとした。

 だが、動かない。

 手が、筐体に貼りついたように固着している。


「ねえ」


 今度は、はっきりとした声だった。

 あの、鷺沢の声。

 だが、どこかが致命的に狂っている。

 音程が半音ほどずれていて、言葉と言葉の間が、死後硬直した筋肉のように不自然に詰まっている。


「どうして出てくれないの」


 言葉の速度が滑らかすぎる。感情が、機械的な合成音のように、後から無理やり継ぎ足されてくる不気味な違和感。

 私は、必死に肺に残った空気を絞り出した。


「……出てない。私はボタンを押してない……っ」


 否定なのか、弁解なのか。意味をなさない言葉が漏れた。

 その瞬間。

 通話の向こうで、笑い声がした。

 くぐもった、粘液が喉に絡みついたような音。


「出てるよ」


 即座に、頭蓋骨の裏側で声が響く。


「今、つながってるじゃん」


 画面のタイマーが進む。


 00:27

 00:28

 00:29


 私は、もがくように指を動かした。

 赤い通話終了ボタンを、壊れるほどの力で叩く。

 反応しない。

 何度も、何度も。画面に指を叩きつける。


「切らないで」


 声が、一変した。

 温度が消え、重く鋭い圧がかかる。


「せっかく、ここまで来たのに」


 ここまで。

 どこまで。


「すぐそこだよ」


 声はもはや耳元ではない。私の脳の正中線上で、あいつが喋っている。

 同時に。

 カサ……

 背後で、布が擦れる音がした。

 カーテン。さっきの、あの異常な膨らみ。

 それが、蠢き、動き始めた。

 ゆっくりと。這いずるように、こちらへ。

 私は、振り返りたくないのに、視線を奪われた。

 見てしまった。

 カーテンのわずかな隙間から、何かがこちらを覗き込んでいる。

 顔。

 人の顔という「概念」を無理やり引き伸ばしたようなもの。

 左右の目の位置が著しくずれ、片方の眼球は白濁して宙を泳いでいる。

 口が、耳の付け根まで引き裂かれたように広がり、そこから黒い霧のような吐息が漏れている。

 それが、暗闇の中から、じっとこちらを見つめている。

 そして。

 背後の存在が、その裂けた口を動かした。

 耳元の通話の声と、完全に一致したタイミングで。


「見えた?」


「あああああああああああああ!!」


 私は、ついに理性のたがを外して絶叫した。

 今度は、自分の声が鼓膜を打つ。

 だが、その叫びさえ、凄まじいボリュームで溢れ出した通話のノイズによって掻き消される。

 ざあああああああああああ!!

 すべてを飲み込み、塗りつぶす、死の砂嵐。

 画面が、眩しい白光を放って激しく点滅する。

 通話時間が、異常な加速を始める。


 00:30

 01:12

 03:47


 一瞬のうちに数分が経過し、時間が、因果が、狂い始める。


「もう、いいでしょ」


 ノイズの中から、声が静かに、しかし抗い難い威厳を持って響いた。

 諦めを促すような、残酷なまでの優しさ。

 それは、終わりではない。

 次のステージへ移るための、一方的な区切り。


「そっち、行くね」


 その一言と同時に、通話がぷつりと切れた。

 画面は暗転し、部屋に死のような静寂が戻った。

 だが、その静寂は、もはや先ほどまでのものとは異質だ。

 私は、震える視線をゆっくりと上げた。

 カーテンは閉じている。膨らみも、揺れも消えている。何も見えない。

 それでも、分かる。

 この部屋の空気の密度が、明らかに変わっている。

 そこに、何かが「いる」。

 境界は、完全に越えられたのだ。


 ぶる。


 手の中のスマートフォンが、短く震えた。

 新しい、メッセージ。

 私は、魂を削り取られるような思いで、画面を点灯させた。


『ドアあけて』


 私は、その五文字を網膜に張り付かせたまま。

 自分が座っている椅子の下で、床の温度が急激に下がっていくのを、ただ黙って感じていた。

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