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既読の向こう側 3

三話 入力中


 「来るな」と送った直後、部屋の空気がわずかに、しかし決定的に沈んだ。

 目に見える劇的な変化はない。

 薄いカーテンは閉じられたまま、窓のクレセント錠も固く閉ざされている。机の上の、さっき投げ出した参考書も、使い古されたペンも、さっきと同じ位置で静止している。

 それなのに、何かが、根底から変わってしまった。

 音が、世界から削り取られている。

 あれほど耳をつんざくようだった時計の秒針の音が、聞こえない。

 意識を集中させても、一秒の刻みすら拾えない。消えたのではない。「聞こえなくなった」のだ。

 まるで耳の中に厚い真綿を詰め込まれたように、音の輪郭が溶けて消えている。

 私は、震える両手でスマートフォンの画面を凝視するしかなかった。


『どうして?』


 鷺沢からの一文が、画面の中央に居座っている。

 私の拒絶には、すでに「既読」がついている。それに対する返信は、まだ来ていない。

 来ていないのに、この胸のざわつきは何だ。

 会話は終わっていない。むしろ、ここからが「本番」であるかのように、空気がじりじりと熱を帯びていく。

 画面の下部。入力欄のすぐ上。

 そこに、呪いのような表示が浮かび上がった。


 ――入力中


 薄い灰色の文字。そして、その横に並ぶ三つの点。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ。

 規則正しく、順番に点灯しては消える。

 誰かが文字を打ち込んでいるときに表示される、あの他愛のない合図。

 だが今、それが、心臓の鼓動を直接握り潰されるような恐怖となって私を襲う。

 入力している。向こう側で。あいつが。

 何を打っている。どんな恨み言を、どんな呪詛をこちらへ叩きつけようとしている。

 分からない。だが、確実に「考えている」。こちらの拒絶に対して、次の言葉を。

 一秒が、永遠のように引き伸ばされる。

 点が明滅するそのリズムは、粘り気のある、歪な「呼吸」のようだった。

 やがて。

 ふっと、表示が消えた。

 網膜が焼き付くような感覚の直後、新しい吹き出しが現れる。


『どうして来ちゃダメなの?』


 私は、スマートフォンを握る指に血の気が失せるほど力を込めた。

 言葉が、あまりにも普通すぎる。あいつが生きていた頃の、他愛のないわがままの延長線上にあるような響き。

 異常が、徹底的に日常の皮を被っている。それが、何よりも私の神経を逆撫でした。

 返信はしない。そう心に誓う。

 ここで言葉を重ねれば、決定的に「向こう側」に引きずり込まれる。生存本能が、そう警告している。

 私は、震える親指で電源ボタンを押し込んだ。


 暗転。


 黒い鏡となった画面に、自分の顔が映る。

 その顔が、一瞬だけ、私の動きよりも「遅れて」動いた気がした。

 反射的に自分の頬を触るが、画面の中の影は、すでに無表情なまま私を見つめ返している。

 気のせいだ。疲れているんだ。

 そう言い聞かせるが、視線を逸らすことができない。黒い画面の底から、もう一人の自分が、獲物を狙う獣のような目でこちらを見ている。

 そのとき。


 カチ。


 指も触れていないのに、画面が勝手に点灯した。

 私は、飛び上がるような衝撃とともにスマートフォンをベッドの上に放り出した。

 シーツが小さく音を立てる。だが、その衝撃とは無関係に、画面は眩い光を放ち続けている。

 ロック画面。そこには、新しい通知が冷酷に並んでいた。


『無視するの?』


 短い詰問。そして、そのすぐ下に。


『今も見てるでしょ』


 呼吸が、絶望的に浅くなる。

 私は、引き寄せられるように、ゆっくりとスマートフォンを手に取った。

 逃げても無駄だ。あいつは、私の思考の先を読んでいる。

 アプリを開く。


『ねえ』

『答えて』

『今どこ?』

『部屋?』


 指先から全身へ、冷気が伝播する。

 部屋? という問いが、喉元に刃を突きつけられたような恐怖となって迫る。

 外なのか、家なのかを訊いているのではない。もっと具体的で、逃げ場のない限定。

 そこにいることを、確信しているような口ぶり。

 まるで。

 もう、扉を開ける必要さえない場所に、来ているみたいに。

 私は、思わず顔を上げた。

 自分の城であるはずの、見慣れた部屋。

 だが、静かすぎる。

 階下の生活音も、遠くを走る車のエンジン音も、窓を叩く風の音も、一切が遮断されている。

 世界からこの部屋だけが切り離され、虚空に浮かんでいるような、不気味な孤独感。


『こっち見て』


 画面に、文字が躍る。

 私は、逆らえずにゆっくりと視線を落とし、画面を見つめる。


『違うよ』


 即座に、返信が来る。


『そっちじゃない』


 背筋を、冷たい蛇が這い上がるような感覚。

 心臓が、ドクンと一際大きく跳ねた。

 「そっちじゃない」……? じゃあ、どこだ。どこから私を見ている。


『うしろ』


 その一言が表示された瞬間、時間が、凍りついた。

 振り返ってはいけない。

 頭では分かっている。理性が必死に叫んでいる。

 だが、身体は死者の指先に操られる操り人形のように、ゆっくりと、ゆっくりと回転していく。

 錆び付いた機械のような動きで、首が回る。

 背後を見る。

 薄いカーテン。閉ざされた窓。

 その手前に、自分が寝ているはずのベッド。

 何もいない。

 そのはずだった。

 だが。

 カーテンの裾が、わずかに、膨らんでいる。

 風はない。窓も開いていない。

 それでも、布の内側から、何かがゆっくりと押し出されるように、ゆらり、と膨らんでいる。

 何かが、そこに「立っている」かのように。

 私は凍りつく。瞬きさえも忘れたまま、視線をスマートフォンに戻す。


『見えた?』


 画面に、そう表示される。

 喉がヒクヒクと鳴るが、声は出ない。逃げようとしても、足が床に縫い付けられたように動かない。


『そこにいるよ』

『ずっと前から』


 頭の中が、真っ白なノイズで埋め尽くされる。

 最初から。

 最初の通知が来たときから。

「見えてるよ」と言っていたのは。

 画面の向こう側の、遠い場所からのメッセージなどではなかったのだ。

 あいつは、ずっと。

 この四方の壁に囲まれた、閉鎖空間の中にいた。


『ねえ』


 新しい吹き出しが現れる。


『さわれる?』


 その言葉と同時に。

 カーテンの膨らみが、ぐにゃりと形を変えた。

 布が、ゆっくりとこちらへ伸びてくる。

 内側から押し当てられたのは、青白く、歪な、人の指の輪郭。


「あ……あぁ……っ!!」


 私は、ようやく、搾り出すような悲鳴を上げた。

 だが、その声は自分の耳にさえ届かない。

 空気そのものが死に絶えたこの部屋から、あらゆる音は奪い去られ、ただ、あいつの指が布をなぞる、カサ、カサという微かな音だけが、脳髄に直接響き渡っていた。

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