既読の向こう側 2
二話 未読の圧力
床に落ちたスマートフォンは、しばらくのあいだ静かだった。
先ほどまでの狂気じみた発光が嘘のように消え、漆黒のガラス面が天井の闇をぼんやりと映し出している。鏡のようになった画面の隅に、自分の顔が入り込んでいるのが見えた。血の気が完全に引き、土気色をしたその表情は、まるで死後数日を経過した他人の死体のようで、焦点の合わない瞳が虚空を彷徨っている。
拾い上げるべきか。それとも、このまま部屋を飛び出して、夜道へ逃げ出すべきか。
思考は泥沼に嵌まったように動かず、ただ無益な時間だけが過ぎていく。
一度止まったように感じられた時計の秒針の音が、再び鼓膜を叩き始めた。
カチ、カチ、カチ……
規則正しいはずの音が、わずかに、本当にわずかにずれている。不規則な動悸のように、間隔が伸びたり縮んだりしている。その音が、誰かの「足音」に聞こえ始めたとき、再びそれは訪れた。
ぶる。
床のフローリングを直接震わせる、重く、短い振動。
暗い闇の中で、スマートフォンがわずかに跳ね、位置を変えた。
私は反射的に肩を大きく震わせ、喉から乾いた喘鳴が漏れた。
見たくない。関わりたくない。
だが、このまま放置すれば、何か取り返しのつかない、物理的な「実害」がこの部屋に顕現するのではないかという、根拠のない焦燥が背中を突き上げる。
私は、這いつくばるようにして、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
呪われた遺物に触れるような忌避感とともに、スマートフォンに手を伸ばす。
指先が、その筐体に触れた瞬間。
「っ……!」
あまりの冷たさに、声を上げそうになった。
さっきまで手の中にあったはずなのに、まるで極寒の屋外に数日間放置された金属塊のような、骨まで凍てつく冷え方をしている。
震える手で、画面を上に向ける。
画面は暗い。だが、振動は止まらない。
ぶる。ぶる。ぶる。
断続的に、そしてあまりにも規則正しく。まるで、この冷え切った機械自体が、生き物の呼吸を模倣しているかのようだった。
私は意を決して、電源ボタンを押し込んだ。
最大輝度の白い光が網膜を灼き、私は目を細める。
ロック画面。そこには、通知の帯が隙間なく並んでいた。
すべて、送信者の名前は同じだ。
――鷺沢。
指が止まる。だが、視線は拒絶できず、そこに並ぶ文字を網膜に焼き付けてしまう。
『なんで無視するの?』
『さっきまで見てたよね』
『ねえ』
『ねえ』
『ねえ』
呪詛のように、同じ言葉が果てしなく繰り返されている。
通知のタイムスタンプを見る。すべて数秒おき。人間がフリック入力で打てる速度を遥かに超えている。機械的な連打。あるいは、思考がそのまま画面に染み出しているかのような異常な頻度。
喉が、砂を噛んだように乾く。舌が上顎に嫌な感触で張り付く。
私は、引き寄せられるようにロックを解除した。
トーク画面を開くと、画面を埋め尽くしていたのは「白い吹き出し」の津波だった。
『見えてるよ』
『今も見てるでしょ』
『ねえ』
『返事して』
スクロールしても、同じような文面が際限なく続く。
そしてその濁流の途中に、私が送ったことになっている、あの一文が挟まっていた。
『やっと見たね』
私が打ったのではない、何者かが私を騙って送信した言葉。
その隣には、鮮明な「既読」の二文字が灯っている。
それが、これ以上ないほど現実としての「生々しさ」を突きつけてくる。
「……違う」
思わず声が漏れた。
誰に向けての否定なのか、自分でも分からない。画面の向こうの鷺沢へか、この部屋を浸食し始めた闇へか、あるいは狂い始めた自分自身の神経へか。
そのとき。
画面の下端に、新しい吹き出しが、吸い付くような速さで現れた。
『声、出したね』
全身の産毛が逆立ち、内臓がせり上がるような感覚に襲われた。
今、確かに小さく声を出した。それに応じるように、文字が紡がれた。
スマートフォンのマイクが拾っただけだ、という理性的な解釈を、本能が否定する。
これは「聞いている」。
こちらの呼吸、震え、怯え、そのすべてを向こう側で「味わっている」。
私は反射的に周囲を見回した。
使い古された机。整然と並ぶ本棚。皺の寄ったベッド。閉ざされたドア。
目に映る風景に異常はない。
だが、部屋の空気の中に、数えきれないほどの「視線」が混じっているような感覚。
どこからか、確実に見られている。
闇の濃度が、じりじりと増していく。
『どこ見てるの?』
画面に浮かぶ問いかけ。
私は反射的に呼吸を止めた。
『こっちでしょ』
次のメッセージ。
こちらの視線の動きさえも、完璧にトレースされている。
私は耐えきれず、スマートフォンを裏返そうとした。この「目」を隠せば、少しは逃げられるのではないかと。
だが、その指が動くよりも早く、画面が光る。
『隠しても同じだよ』
手が止まる。そのまま、金縛りにあったように固まる。
どうすればいい。電源を切れば? 壊せば? 窓から放り捨てれば?
次々と逃避の選択肢が浮かぶが、どれもが決定的な解決には思えない。
むしろ、そんなことをすれば、この「何か」を決定的に怒らせてしまう気がする。その正体不明の、しかし強烈な「予感」が、私の行動を完全に縛り付けていた。
『ねえ』
『さびしいよ』
その一文は、これまでの執拗な詰問とは、少し毛色が違っていた。
責めるような調子ではなく、どこか弱々しく、縋り付くような、湿り気を帯びた響き。
その瞬間。頭の中に、かつての鷺沢の顔が蘇った。
よく笑う男だった。くだらない冗談で笑い合った帰り道。夜遅くまで続いた、他愛のないメッセージの応酬。
私が既読を無視したとき、あいつはよく冗談めかして「さびしい」と送ってきた。
同じ言葉。同じ癖。同じ間。
胸が締め付けられるような錯覚に陥る。
違う、あいつは死んだ。これはあいつではない。
だが――あまりにも、似すぎている。
『ねえ』
『返事して』
『お願い』
言葉が少しずつ柔らかくなる。責める調子から、子供が親を呼ぶような、逃げ場のない懇願へ。
私は唇を噛んだ。
返信をすれば、終わりだ。何かが決定的に壊れ、こちらの世界の「境界」が崩落する。その直感だけは、恐ろしいほど鮮明だった。
それでも。
「……ほんとに、鷺沢なのか?」
掠れた声が、無意識に漏れた。
直後、画面が発光する。
『そうだよ』
間髪入れずに。
『忘れたの?』
『ずっと一緒にいたじゃん』
指が震え、スマートフォンの筐体を握る力が強まる。
信じてはいけない。だが、完全には否定しきれない自分がいる。
もしも、あいつの魂の残滓が、この回路の中に閉じ込められているとしたら。
もし、助けを求めているのだとしたら。
『ねえ』
また、一通。
『今から行っていい?』
その一文を見た瞬間、身体の奥底で、氷のような警鐘がけたたましく鳴り響いた。
違う。これは、絶対に違う。
来させてはいけない。
「どこ」から「何」が来るのかは分からない。だが、それがこの部屋の敷居を跨いだ瞬間、私の人生は終わる。それだけは、生存本能がはっきりと理解した。
私は、震える指でキーボードを開いた。
初めて、恐怖を怒りで上書きするように、自分の意思で文字を打ち込む。
「来るな」
短い拒絶。それを叩きつけるように、送信ボタンを押した。
一秒も経たずに、既読がつく。
そして。
『どうして?』
その問いは、あまりにも自然で、いつものあいつのようで。
そして、この世のどんな氷よりも、冷たかった。
画面の白い光が、さらに強くなった気がした。
部屋の空気が鉛のように重くなる。
ミシッ……。
どこか遠くで、建物の骨組みが軋むような、不吉な音がした。
私は、確信する。
これは、液晶画面の中だけの出来事ではない。
「向こう側」が、確実に、物理的な距離を詰め、こちら側に浸食してきている。




