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既読の向こう側 1

一話 最初の通知


 夜は、やけに静かだった。

 その静寂は、耳の奥でキーンと金属音が鳴り止まないような、不自然で、圧迫感のあるものだった。湿った重たい空気が部屋の隅々に沈殿し、微動だにしない。

 机の上に置かれたアームライトが、参考書の白々と光るページだけを鋭く照らし出している。その照射範囲の外側、部屋の四隅は濃厚な闇に塗りつぶされ、まるでそこから何かがじっとこちらを覗き込んでいるかのような、得体の知れない気配を感じさせる。

 薄いカーテン越しに染み込んでくる街灯の白い光は、霧のように部屋の床に滲み、影を不自然に長く伸ばしていた。

 壁に掛けられた時計の、秒針が刻む音。


 チッ、チッ、チッ、チッ……


 普段は生活音に掻き消されるその規則的な破裂音が、今夜はやけに大きく、鼓膜を直接針で突くように響く。その音が刻まれるたび、部屋の空気が少しずつ、確実により冷たく、より重くなっていく気がした。


 ぶる。


 唐突に、机の木目が震えた。

 暗闇の中に置かれたスマートフォンの画面が、一瞬、有機的な白光を放ち、すぐに消える。

 通知音は鳴らない設定にしている。だからこそ、その短い振動だけが、机を伝わり、床を伝わり、私の掌に直接こびりつくような、不快な錯覚を呼び起こした。

 私はペンを置いた。カタン、という音が、静寂を裂いて寝室の奥まで響く。

 今まで追っていた参考書の文字列が、急に意味を持たない、ただの黒いシミの羅列に変わる。視界の端で、暗転したスマートフォンの黒い画面が、じっとこちらを睨み返しているように見えた。

 ……誰だろう。

 こんな時間に。

 アームライトの光を遮るように手を伸ばし、腕時計を見る。針は午前一時を回っていた。

 友人たちは皆、もう眠りについているはずだ。あるいは、起きていたとしても、わざわざこの時刻に連絡を寄こしてくるような心当たりはない。

 それでも、通知は来た。

 私は、湿り気を帯び始めたスマートフォンを手に取る。

 冷たいガラスの感触が、指先に張り付く。画面をタップすると、漆黒の画面が鮮烈な光を放ち、瞳孔が急激に収縮する。ロック画面の中央に、メッセージアプリの通知が表示されていた。

 送信者の名前を見た瞬間、私の指は、空中で凍りついた。

 ――鷺沢。

 喉の奥が、氷水を流し込まれたようにひやりと冷える。

 心臓が、鐘を突かれたように歪な音を立てて脈打った。

 その名前は。その名前だけは、もう二度と、この画面に表示されることがないはずの、終わった名前だった。

 指先が、自分の意志とは無関係に小刻みに震え始める。ロックを解除し、メッセージアプリを開く。見慣れたトーク画面の一番上に表示されているのは、間違いなく「鷺沢」のアカウントだ。

 彼との最後のやり取りは、一週間前、あの日の夕方で止まっている。

 いや。正確には、「止まっているはずだった」。

 その一番下に、新しい吹き出しがひとつ、追加されている。

 血の気が引いていく白い背景に、冷徹な黒い文字。


『起きてる?』


 呼吸が、浅くなる。

 肺が酸素を拒絶するように、胸が締め付けられる。

 そんなはずがない。あり得ない。絶対に、あってはならない。

 だが、画面は確かにそこにあり、私の瞳を悪夢のような現実で灼き続けている。

 私は、既読をつけずに画面を閉じた。

 見なかったことにしようとする、本能的な拒絶反応。

 スマートフォンを机の上に置く。ドク、ドク、ドクと、肋骨の内側から叩きつけるような鼓動が、静寂を掻き消していく。

 落ち着け。ただのバグだ。誰かが、間違えてあいつのアカウントを使って送ったのかもしれない。番号の再利用、乗っ取り、不具合。現代社会では十分にあり得るはずだ。

 だが。画面に表示された、あの少しふざけた自撮りのアイコン。

 「鷺沢」という、見慣れた漢字の羅列。すべてが、あいつのままだった。

 あいつは、一週間前に死んだ。

 雨の降る夜道で車にはねられて、そのまま。

 葬式にも出た。白い花に囲まれた、笑っている遺影を見た。

 焼かれて、骨になったのも、この目で見た。

 確かに、終わったはずだった。


 ぶる。


 スマートフォンが、また震えた。今度は少し、長い。

 私は、反射的にそちらを見る。暗闇の中で、画面が灯明のように光る。新しい通知。再び、鷺沢の名前。

 見てしまう。見なければならない気がしてしまう。

 ゆっくりと、スマートフォンに手を伸ばす。指先は、死人のように冷たくなっていた。

 画面を開く。そこには、新しい吹き出しが、またひとつ増えていた。


『なんで既読つけないの?』


 背筋に、氷の塊が走る。

 さっきのメッセージ、私は確かにプレビューだけを見て、アプリは開かずに画面を閉じた。

 それを、知っている。

 画面の向こう側の「何か」は、私の行動をじっと見つめているかのような書き方。

 私は、慌てて電源ボタンを押し、画面を暗転させる。

 呼吸が乱れる。ヒッ、ヒッ、と歪な音を立てて、息がうまく吸えない。

 スマートフォンを裏返しにして机に置く。見えないように。逃れるように。

 だが、音は消えない。


 ぶる。

 ぶる。

 ぶる。


 連続して、振動が続く。止まらない。

 机の上でスマートフォンが僅かに動き、死のダンスを踊っている。

 振動は、やがて止んだ。再び、重苦しい静寂が戻る。何かがこの部屋の闇に潜み、じっと呼吸を整えているような、濃厚な沈黙。

 恐る恐る手を伸ばし、スマートフォンを裏返す。画面は暗い。

 終わったのか、と思った瞬間。

 画面が、勝手に点いた。

 設定した覚えのない、最大輝度の白い光が、部屋を爆発するように照らす。


『ねえ』


 短い一言。そして、間を置かずに。


『見えてるよ』


 背後で、何かが、微かに動いた気がした。

 反射的に振り返る。誰もいない。

 だが、薄いカーテンが、わずかに、静かに揺れている。

 窓は閉まっている。風が入るはずはない。

 それでも、布が、何者かがその裏を通り抜けたかのように、じっとりと揺れている。

 私は、もう一度スマートフォンを見る。


『どこにいるの?』


 指が、勝手に動く。止められない。

 画面をタップする。トークを開く。

 キーボードが表示され、入力欄が空白のまま私の言葉を待っている。

 返すべきではない。分かっている。これは罠だ。

 それでも、画面の向こうに、あの日死んだ「鷺沢」が座っている気がしてしまう。

 あいつは、いつもこうだった。しつこくて、返事が来るまで何度でも送り続ける。既読をつけても、すぐに返さないと怒る。

 その嫌な癖が、今もそのまま続いているみたいで。

 「お前、死んだはずだろ」と、文字を打ちそうになる。

 ――やめろ。

 理性は最後の手前で踏みとどまるが、入力欄に、文字が勝手に現れた。


『やっと見たね』


 触れてもいないのに、文章が一文字ずつ入力されていく。


 カチ。


 送信ボタンが押される。自動的に。

 メッセージが送られ、既読がつく。

 その瞬間、相手の吹き出しが、文字を入力する間さえ置かずに現れる。


『おそいよ』


 私は、ようやく理解した。

 これは、メッセージではない。会話だ。

 あいつは、画面の中からこちらを見て、私の怯える様子を観察して、言葉を返してきている。

 「鷺沢」が、そこにいる。

 このスマートフォンの、ガラス画面のすぐ向こう側に。


「うわあああああああ!!」


 悲鳴を上げてスマートフォンを放り出した。

 アームライトの光が届かない闇の中へ、スマートフォンは裏返しになって落ちた。

 その闇の中から、床に落ちた画面が放つ光が、一瞬、壁を照らした。

 新しいメッセージが、またひとつ、増えた。

 今度は振動ではなく、鼓膜を直接劈くような、あいつの声の通知音で。


『ねえ』


 それは、まるで。

 私のすぐ隣、耳元で囁かれているかのような、おぞましい近さだった。

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