あそびの国の終わり方 4
四話 おにぎりころりん
最初に感じたのは、傾きだった。
身体がわずかに前へ引かれている。
重心が足のつま先側へと寄り、かかとが浮きそうになる。
立っているだけなのに、地面がこちらを押し出してくるような、不自然な力の流れ。
視界を上げると、長い坂道が伸びていた。
終わりが見えない。
どこまでも、どこまでも下へと続いている。
舗装されているのか、土なのか、その境界は曖昧で、ところどころに石のようなものが埋まっているのが分かるだけだ。
空はない。
天井もない。
上を見上げても、ただ薄暗い灰色が広がっているだけで、距離感が掴めない。
光源も分からないのに、周囲はぼんやりと照らされている。
背後に、気配。
振り返るより先に、背中を押された。
ぐ、と力がかかる。
抵抗する暇もない。
身体が前へと傾く。
足がもつれる。
次の瞬間、私は転がっていた。
視界が回る。
空のような灰色と、地面の茶色が、交互に現れては消える。
回転のたびに、世界が断片的に切り取られる。
腕を伸ばす。
止まろうとする。
だが掴めるものがない。
指先は空を切り、次の瞬間には地面に叩きつけられる。
衝撃。
肩が打ちつけられ、骨に鈍い痛みが走る。
息が漏れる。
だが転がる勢いは止まらない。
ころり、ころり、と。
単純な動きのはずなのに、その繰り返しが異様に長く感じられる。
笑い声が聞こえる。
遠くから。
いや、近くから。
距離が分からない。
子どもの笑い声のようでいて、どこか歪んでいる。
高低の違う声が重なり、ひとつの響きになっている。
楽しんでいる。
誰かが、この状況を楽しんでいる。
私が転がる様を、面白がっている。
止まれ。
止まれ。
頭の中で叫ぶ。
身体に命じる。
だが、まったく効かない。
重力が、意志を無視して働いている。
坂は徐々に急になる。
回転の速度が上がる。
視界がさらに速く切り替わる。
上下の感覚が曖昧になる。
どちらが上でどちらが下なのか、分からなくなる。
ただ回っている。
ひたすらに。
皮膚が擦れる。
腕や脚が地面に打ちつけられるたび、表面が削られていく感覚がある。
痛みはあるのに、どこか現実感が薄い。
遅れて届くような、鈍い痛覚。
それでも確かに、傷ついている。
転がるたびに、何かが削れていく。
肉体なのか、それとも別の何かなのか。
分からない。
ただ、減っている。
笑い声が、近づく。
耳元で響くほどに。
「ころりん」
誰かが言った。
その一言が、妙にくっきりと聞こえた。
他の笑い声とは違い、輪郭を持っている。
あの声だ。
かくれんぼでも、鬼ごっこでも、だるまさんがころんだでも聞いた、あの声。
遊びを告げる声。
ルールを支配する声。
「ころりん」
もう一度。
転がるリズムと、言葉が一致する。
ころり。
ころり。
そのたびに、世界が反転する。
私は自分が何なのか、分からなくなっていく。
人間なのか。
ただの物体なのか。
転がるもの。
転がされるもの。
区別が消えていく。
やがて、視界の端に黒いものが映る。
最初は影だと思った。
だが違う。
それは、穴だ。
地面にぽっかりと開いた、真円に近い黒。
底が見えない。
光をまったく反射しない、完全な闇。
そこへ向かって、私は転がっている。
一直線に。
逃げられない。
避けられない。
この坂の終着点は、あの穴だ。
理解した瞬間、恐怖が形を持つ。
落ちたら、どうなる。
考えたくない。
だが思考は止まらない。
これまでの遊び。
かくれんぼ。
鬼ごっこ。
だるまさんがころんだ。
どれも終わりはなかった。
ならば、これも。
終わらない。
穴に落ちても、終わりではない。
次がある。
次の遊びが、待っている。
「おいで」
声が、穴の中からした。
はっきりと。
まるで底に誰かがいて、こちらを見上げているかのように。
あの声。
すべての遊びに共通する、あの存在。
私は抗おうとする。
腕を広げる。
地面に引っかかろうとする。
だが、指は滑る。
爪が削れる感触。
それでも止まらない。
重力が、すべてを決定している。
ころり。
ころり。
穴が、近づく。
その黒が、視界の大半を占めるようになる。
暗い。
深い。
底がない。
吸い込まれる。
落ちる。
その直前。
世界が、ぴたりと止まった。
回転が止まる。
身体が宙に浮く。
重力が消える。
時間が、切断されたかのような静止。
その一瞬で、私ははっきりと理解する。
これは遊びではない。
遊ばれているのは、私だ。
誰かがルールを決め、誰かが進行させ、誰かが楽しんでいる。
私は、その中の「駒」でしかない。
意思は関係ない。
選択もない。
ただ、決められた通りに転がるだけ。
その理解が、胸の奥で静かに沈む。
同時に、奇妙な納得が広がる。
だから、止まれないのか。
だから、逃げられないのか。
理由が分かってしまう。
次の瞬間、重力が戻る。
身体が、落ちる。
穴の中へ。
音が消える。
光が消える。
感覚が、ひとつずつ剥がれていく。
視覚。
聴覚。
触覚。
順番に、切り離される。
最後に残るのは、意識だけ。
その意識に、声が届く。
「じょうずにころがれたね」
優しく。
褒めるように。
だがその響きは、どこまでも冷たい。
私は、何も答えられない。
答える術がない。
ただ、闇の中に沈んでいく。
次に目を開けたとき、どこにいるのか。
もう、想像することすらできなかった。




