あそびの国の終わり方 3
三話 だるまさんがころんだ
止まっている。
いや、止められている、というべきかもしれない。
片足を一歩前に出しかけたまま、私は静止していた。
膝はわずかに曲がり、重心は不安定に傾いている。
ほんの少しでも力を抜けば、そのまま前へ倒れてしまいそうな姿勢だ。
だが、動けない。
動いてはいけないと、身体の芯から命じられている。
空気が重い。
粘りつくような圧が、全身にまとわりついている。
呼吸をするたび、肺の中に泥を吸い込んでいるような錯覚に襲われる。
目の前には、「それ」がいる。
背を向けて立っている。
人の形に似ているが、明らかに歪んでいる。
肩の高さが左右で違い、腕の長さも均等ではない。
首は不自然に右へ傾き、まるで途中で折れたものを無理やり繋ぎ合わせたかのようだ。
衣服は着ていない。というより、輪郭そのものが曖昧で、表面が定まっていない。
影の塊が、人型を模しているだけのようにも見える。
――だるまさんがころんだ。
声が響く。
低くも高くもない。年齢も性別も判別できない、あの声だ。
かくれんぼや鬼ごっこで聞いたものと同じ、濁った響き。
だが今は、はっきりと規則性を持っている。
音節ごとに、間がある。
「だるま」
「さんが」
「ころんだ」
一音ずつ、世界に刻みつけるように。
その言葉が終わると同時に、「それ」の首が動く。
ぎり、と嫌な音がした。
ゆっくりと、後ろを振り返る。
私は息を止める。
動いていないか。
わずかでも揺れていないか。
自分の身体のすべてに意識を集中させる。
筋肉の震えすら、許されない。
「それ」が、こちらを向く。
顔のあるはずの場所は、平坦だった。
目も、鼻も、口もない。
ただ、滑らかな面があるだけ。
それでも、見られている。
強烈な視線が、身体の表面を撫でる。
皮膚の上を這うように、じっとりとした感覚が広がる。
心臓が暴れる。
鼓動が大きすぎる。
この音で、動いていると判断されるのではないかという錯覚に陥る。
時間が、引き延ばされる。
一秒が異様に長い。
やがて、「それ」は再び前を向いた。
その瞬間、身体の拘束がわずかに緩む。
私は、ほんの少しだけ前へ進む。
足を下ろす。
畳の感触が、足裏に伝わる。
その一歩だけで、全身の神経が焼けるように疲労する。
だが、止まれない。
進まなければならない。
なぜかは分からない。
ただ、この遊びには「ゴール」があるという感覚だけが、ぼんやりと存在している。
そこに辿り着かなければ、終わらない。
――だるまさんがころんだ。
再び、声。
私は止まる。
今度は両足で立っている。だが重心は前に傾いている。バランスが不安定だ。
「それ」が振り返る。
ぎり、と首が軋む。
顔のない顔が、こちらを向く。
視線が刺さる。
動くな。
動くな。
頭の中で、何度も繰り返す。
筋肉が震える。抑えきれない微細な痙攣が、脚の奥で波打つ。
止めろ。
止めろ。
意識で押さえつける。
やがて、「それ」は再び前を向く。
そのたびに、私は少しずつ進む。
数センチ。
また数センチ。
だが距離は縮まらない。
どれだけ歩いても、「それ」は同じ位置にいるように見える。
空間が、歪んでいる。
遠近感が狂っている。
近づいているはずなのに、決して近づけない。
繰り返し。
停止と前進。
停止と前進。
単調なリズムが、意識を削っていく。
やがて、違和感に気づく。
音が、増えている。
最初は自分と「それ」しかいなかったはずの空間に、別の気配が混じっている。
背後。
何かがいる。
呼吸のような、微かな音。
視線のような圧。
振り返りたい衝動が、強くなる。
だが、それは許されない。
振り返れば、その瞬間に負けると分かっている。
前にも「それ」がいる。
後ろにも「何か」がいる。
どちらを見ても、終わりだ。
――だるまさんがころんだ。
声が、二つ重なった。
私は凍りつく。
前方の「それ」は、確かに声を発した。
だが同時に、背後からも同じ言葉が聞こえた。
完全に一致した発音。
完全に同じ声。
同時に。
ゆっくりと、理解が追いつく。
前だけではない。
後ろにも「それ」がいる。
いや、左右にも、上にも、下にも。
この空間そのものが、「それ」で満たされている。
どこを向いても、「だるまさんがころんだ」が存在している。
逃げ場はない。
静止する場所もない。
ルールが、成立していない。
それでも、遊びは続く。
私は止まっている。
動けない。
だが、どこかで確実に動いていると判定される。
その矛盾が、じわじわと精神を侵食していく。
身体が、自分のものではなくなる。
感覚がずれる。
自分がどの方向を向いているのか、どこに立っているのか、分からなくなる。
――だるまさんがころんだ。
無数の声が、重なる。
その瞬間、私は「動いた」。
動いたつもりはなかった。
だが、確かに何かが動いた。
指先か、まばたきか、それとも思考そのものか。
何が原因なのか分からない。
ただ、「動いた」と判定された。
すべての「それ」が、同時にこちらを向く。
ぎり、ぎり、ぎり、と無数の首が軋む音が響く。
視線が、一斉に集中する。
逃げ場はない。
「みつけた」
その言葉は、かくれんぼのときと同じだった。
だが意味が違う。
これは発見ではない。
断罪だ。
次の瞬間、空間が崩れる。
上下左右の感覚が消える。
私は、どこにも立っていない。
落ちているのか、浮いているのかも分からない。
ただ、無数の「それ」に囲まれながら、意識だけが引き裂かれていく。
だるまさんがころんだ。
止まれなかった者の末路。
それは、動けなくなることではない。
永遠に、「動いた」と言われ続けることだ。




