あそびの国の終わり方 2
二話 鬼ごっこ
走っている。
息が上がる。喉が焼けるように痛い。
肺の奥がひび割れていくような感覚に襲われながら、それでも足は止まらない。
なぜ走っているのか、理由は曖昧だ。
だが、止まれば終わる。
その確信だけが、はっきりと身体の奥に刻み込まれている。
床を蹴るたび、硬い音が響く。
先ほどまで畳だったはずの足元は、いつの間にか板張りに変わっている。
乾いた木の感触が、靴底越しに伝わってくる。
さらに数歩先で、今度はコンクリートへと変わる。ひやりとした冷たさが、足の裏から脳へと突き抜ける。
空間が、一定ではない。
廊下はまっすぐに伸びているはずなのに、走るほどに形を変えていく。
壁の色が変わる。天井の高さが変わる。照明の明るさが、呼吸するように明滅する。
現実が、固定されていない。
私は何度も角を曲がる。
右へ、左へ。
だがどれだけ曲がっても、似たような景色が続くだけだ。
古びた家の廊下、学校の廊下、病院の通路のような場所が、つぎはぎのように繋がっている。
背後から、足音。
とん、とん、とん。
軽やかで、規則正しいリズム。
追ってきている。
「鬼」が。
「まて」
声がした。
かくれんぼのときに聞いた、あの声だ。曖昧で、濁っていて、それでいて妙に楽しげな響き。
振り返るな、と本能が叫ぶ。
だが同時に、見てしまいたい衝動が膨らむ。
どんな姿をしているのか。
どれほどの距離にいるのか。
知りたい。
その欲求が、背筋をぞわりと撫でる。
だが、振り返った瞬間に捕まる気がした。
理由は分からない。
ただ、それだけは絶対にしてはいけないと、どこかで理解している。
私は前だけを見て走る。
視界の端で、何かが動く。
壁に影が揺れる。
だがその影は、私の動きと一致していない。
遅れて動いたり、逆方向へ流れたりする。
誰かの影だ。
私ではない。
それが、壁の上を這うように追いかけてくる。
足音が、近づく。
とん、とん、とん。
間隔が、わずかに縮まっている。
距離が詰まっている。
息が荒くなる。視界が狭まる。頭の中が白く霞んでいく。
それでも走るしかない。
止まれない。
止まれば――
「つかまえる」
耳元で囁かれた気がした。
反射的に身体が硬直する。
だが振り返ってはいない。振り返っていないのに、すぐ後ろにいると分かる。
気配が、濃すぎる。
背中に視線が突き刺さる。
逃げ切れない。
その考えが、ふと頭をよぎる。
その瞬間、足がもつれる。
わずかな躓き。
だが致命的だった。
身体が前のめりに崩れる。
手をつこうとするが間に合わない。肩から床へと叩きつけられる。
鈍い衝撃。呼吸が一瞬止まる。
起き上がろうとする。
だが、動けない。
足首に、何かが絡みついている。
冷たい。
氷のような温度。
それが皮膚の上を這い、骨にまで染み込んでくる。
ゆっくりと、引かれる。
ずるり、と身体が後ろへ滑る。
爪を立てる。床に必死にしがみつく。
だが意味がない。力の差がありすぎる。
振り返る。
見てはいけないと分かっていたのに、見てしまった。
そこに、鬼がいた。
人の形をしている。
だが、それだけだ。
輪郭はぼやけ、揺らいでいる。水面に映った影のように、安定しない。
顔があるはずの場所は、暗く沈んでいる。目も鼻も口も見えない。ただ、空洞のような黒が広がっている。
それでも、「見ている」と分かる。
確実に、こちらを見つめている。
「つかまえた」
声が重なる。
一つではない。
無数の声が、同時に同じ言葉を発する。
鬼の腕が伸びる。
あり得ない長さに、するりと。
影のようなそれが、私の足首から膝、腰、胸へと絡みついていく。
冷たい。
痛みはない。
だが、体温が奪われていく。生きている感覚が、じわじわと剥がれていく。
叫ぼうとする。
声が出ない。
喉が凍りついたように、動かない。
視界が傾く。
床と天井が入れ替わる。
引きずられている。
廊下の上を、ずるずると。
景色が流れる。だがそれは先ほど走ってきた道ではない。知らない場所へ、連れていかれている。
暗い廊下。
長い階段。
窓のない部屋。
すべてが断片的に繋がり、意味のない風景として流れていく。
やがて、止まる。
鬼が、私を見下ろしている。
いや、囲んでいる。
気づけば、周囲に同じ影がいくつも立っていた。
どれも同じ形。
どれも同じ「空洞の顔」。
「おに、こうたい」
誰かが言った。
その言葉の意味を、理解した瞬間。
私の中で、何かが崩れた。
身体の感覚が、変わる。
冷たさが、内側から広がる。
皮膚の境界が曖昧になる。輪郭が溶けていくような、不気味な感覚。
視界が、暗くなる。
いや、暗くなるのではない。
暗さそのものになる。
目がなくなる。
顔がなくなる。
それでも、見えている。
いや、「感じている」。
周囲の存在が、すべて同じものに見える。
同じ「鬼」。
同じ「私」。
「つぎは、あなた」
声がした。
それが自分の声だと気づくのに、少し時間がかかった。
遠くで、足音がする。
軽やかなリズム。
逃げる誰かの音。
私は、一歩踏み出す。
床の感触はない。
それでも、確かに近づいていく。
楽しい、と思った。
追いかけることが、こんなにも自然で、こんなにも心地いいものだと、初めて知った。
「まて」
声が漏れる。
それはもう、命令ではない。
遊びの合図だ。
鬼ごっこは、終わらない。
捕まれば終わりではない。
捕まった者が、次の鬼になるだけ。
役割を変えながら、永遠に続く。
そして今、私は鬼だ。
逃げる側ではない。
追う側だ。
遠くで、誰かが角を曲がる。
その気配が、手に取るように分かる。
私は走る。
軽やかに。
楽しげに。
とん、とん、とん。
あの足音を、自分が鳴らしていると気づいたとき。
胸の奥で、何かが静かに壊れた。




