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あそびの国の終わり方 1

 一話 かくれんぼ


 その遊びは、いつから始まったのか分からない。


 気づいたとき、私は押し入れの中にいた。

 膝を胸に引き寄せ、顎を埋め、息を殺している。

 狭い空間は湿り気を帯びていて、古い布団と木の匂いが混ざり合い、鼻の奥にこびりつく。

 埃が喉に絡み、咳をしたくなる衝動を必死に押し殺した。


 暗い。だが完全な闇ではない。

 襖のわずかな隙間から、細い光が差し込んでいる。

 その光が、宙に漂う微細な埃を照らし、ゆっくりと揺らめかせていた。

 時間が止まっているように見えるのに、埃だけが生きているみたいに動いている。


 どうして、ここにいるのか。


 考えようとすると、思考が滑る。

 何か大事な記憶に触れそうになると、その直前で霧がかかったように曖昧になる。

 自分の名前すら、はっきりとしない。

 ただ「私」であるという感覚だけが、ぼんやりと残っている。


 そのときだった。


 ――もういいかい。


 声がした。


 唐突に、耳のすぐそばで囁かれたような気がして、肩が跳ねる。

 だが同時に、それは遠くから響いてきたようにも感じられた。距離感が定まらない。

 空間そのものが歪んでいるような、不気味な違和感。


 子どもの声、だと思う。

 けれども、どこか濁っている。

 水の中で聞くような、輪郭のぼやけた音。

 男なのか女なのかも分からない。

 ただ、楽しげな響きだけがはっきりと伝わってくる。


 私は息を止める。


 返事をしてはいけない。


 なぜか、そう思った。

 理由は分からない。けれど、その直感だけは強烈に胸の奥に刻み込まれている。


 ――もういいかい。


 再び。


 今度は少しだけ近い。

 押し入れの外、すぐ向こう側に誰かが立っている気配。

 畳の上に、体重が乗る微かな音が伝わってくる。


 逃げ場はない。


 この狭い空間に、私は閉じ込められている。


 そのはずなのに。


 「まあだだよ」


 声が、出た。


 自分の口から、勝手に言葉が滑り落ちた。

 意志とは関係なく、決められた台詞をなぞるように。


 喉の奥に、冷たい感触が残る。

 誰かに操られているような、不快な違和感。


 違う。言いたくなかった。


 なのに、言ってしまった。


 外で、くすり、と笑う気配がした。


 ひとつではない。

 複数の笑い声が、重なり合っている。

 年齢も高さも違う声が、同時に響いているのに、不思議と調和している。

 まるでひとつの存在が、いくつもの声を持っているみたいだった。


 足音がする。


 とん、とん、とん。


 軽やかなリズム。

 子どもが遊びながら歩くときのような、弾む足取り。

 だがその動きは妙に規則的で、機械のようでもある。


 右へ、左へ。


 押し入れの前を通り過ぎていく気配。

 だが完全には離れない。すぐ近くを、何度も往復している。


 探している。


 私を。


 心臓の音が大きくなる。

 鼓動が耳の奥で反響し、外の音をかき消しそうになる。

 これでは見つかってしまう。そう思うほどに、音はさらに大きくなる。


 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 だが言葉は空回りし、呼吸は浅く、速くなるばかりだ。


 ――もういいかい。


 三度目の問い。


 すぐそこだ。


 襖一枚隔てた向こう側に、「それ」がいる。


 私は必死に息を止める。

 肺が悲鳴を上げる。酸素を求めて身体が震える。

 それでも、動いてはいけない気がした。


 見つかれば、終わる。


 何が終わるのかは分からない。

 だが、終わってはいけないという恐怖だけが、強くこびりついている。


 沈黙。


 時間が引き延ばされる。


 一秒が一分にも感じられるほど、長く、重い。


 その静寂を破ったのは、私ではなかった。


 ――もういいよ。


 誰かが、そう言った。


 その瞬間、空気が変わる。


 探す側と隠れる側。その境界が、決定的に切り替わった。


 襖が、かすかに軋む。


 ぎし、と古い木の音が鳴る。


 隙間が、ほんの少しだけ広がる。


 そこから、闇が覗く。


 光の差し込んでいた細い線が、さらに細くなり、やがて途切れる。

 代わりに、濃密な黒が押し寄せてくる。


 その闇は、ただの暗さではなかった。


 質量を持っているような、重たい黒。


 こちらを「見ている」と確信させる、異様な圧力。


 目はない。顔もない。


 それでも、確かに視線がある。


 逃げられない。


 見つかった。


 そう理解した瞬間、全身の血が冷えた。


 襖が、ゆっくりと開いていく。


 時間をかけて、じわじわと。


 逃げる余裕を与えないように。


 私は動けない。


 身体が凍りついたように、指一本すら動かせない。


 開ききった襖の向こうには、誰もいない。


 空っぽの部屋。


 畳と壁と、薄暗い空気だけがある。


 だが、「いる」。


 確実に、そこにいる。


 見えないだけで、存在している。


 気配が、濃すぎる。


 私は押し入れの奥へと、わずかに身体を引こうとした。


 その瞬間。


 背中に、触れられた。


 冷たい手。


 人間の体温とは思えない、凍りつくような温度。


 押し入れの中に、私以外の誰かがいる。


 あり得ない。


 この狭さで、どうやって。


 だが、確かに触れている。


 指先が、ゆっくりと背骨をなぞる。


 逃げ場は、最初からなかったのだ。


 前にも、後ろにも。


 私は、挟まれている。


 「みつけた」


 耳元で、囁かれた。


 その声は、外から聞こえていたものと同じだった。


 同時に、背後からも、同じ声がした。


 二つの声が、重なる。


 いや、もっと多い。


 無数の「みつけた」が、耳の奥で反響する。


 視界が歪む。


 押し入れの中の暗闇が、波打つように揺らぐ。


 私は、理解する。


 これは、遊びだ。


 かくれんぼ。


 ただし、終わらない遊び。


 見つかったら終わりではない。


 見つかった瞬間から、また始まる。


 終わりのない繰り返し。


 私は、その中に閉じ込められている。


 意識が、ゆっくりと沈んでいく。


 闇に溶けるように。


 最後に見たのは、開いた襖の向こう側。


 そこには、やはり誰もいなかった。


 ただ、次の「隠れる場所」が、静かに待っているだけだった。

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