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ひとり占め

 その日は、朝から嫌な雨が降っていた。

 湿り気を帯びた空気が肺の奥にまとわりつき、吐き出す息さえ重く感じるような午後。短大生の里奈は、どんよりとした雲の下、住宅街の片隅にある小さな公園の横を通りかかった。

 ふと、視界の端に違和感を覚えた。

 誰もいない公園。雨に濡れた砂場の縁に、そいつは座っていた。

 クマのぬいぐるみだった。

 かつては愛らしいミルクティー色だったであろう毛並みは、泥と排気ガスに汚れ、無残に黒ずんでいる。右目のボタンは糸が緩んで力なく垂れ下がり、まるで絶望に打ちひしがれて涙を流しているかのようだった。

 里奈は足を止めた。

 三年間付き合った恋人に、昨日、電話一本で別れを告げられたばかりだった。「他に好きな人ができた」という使い古された言葉。

 里奈の三年間は、その一言でゴミ捨て場のガラクタと同じ価値に成り下がった。

 雨に打たれるぬいぐるみが、自分に見えた。

 里奈は吸い寄せられるように砂場へ足を踏み入れ、泥まみれのクマを両手で掬い上げた。

「……誰もいないの?」

 返事はない。ただ、残された左の黒いボタン目だけが、鈍い光を反射して里奈の瞳をじっと見つめ返している。

 クマを抱き上げた瞬間、ずしりと沈むような重さを感じた。

 綿だけではない、何か湿った塊を抱えているような、奇妙な重量感だった。

「私と一緒に来る? もう、一人にはさせないから」

 里奈は自分の寂しさを埋めるように、その冷たい塊をコートの胸元に抱き寄せた。


 帰宅した里奈は、丁寧にクマを洗い、乾かしてやった。

 取れかけていた右目のボタンを黒い糸で縫い付け、ブラッシングを施すと、見違えるほど綺麗になった。

 里奈はそれをベッドの特等席、枕の隣に座らせた。


 異変が始まったのは、その翌晩からだった。

 深夜、ふと喉の渇きを覚えて目を覚ますと、枕元にいたはずのクマがいない。

 寝ぼけ眼で辺りを探すと、それは寝室のドアの前に、ちょこんと座っていた。

 まるで、里奈が外へ出ないように見張っているかのように。

「……寝相が悪くて、蹴飛ばしちゃったのかな」

 里奈は自分を納得させ、クマを抱き上げてベッドに戻した。

 しかし、その翌日も、その次の日も、クマは場所を変えた。

 ある時はキッチンのテーブルの上、ある時はバスルームの入り口。

 そして移動するたびに、クマの表情が少しずつ変わっているような気がしてならなかった。

 縫い付けたはずのボタン目は、以前よりも生き生きと光を湛え、口元の刺繍は、心なしか吊り上がって微笑んでいるように見える。


 異変は室内の配置に留まらなかった。

 里奈を「外の世界」と繋ぐものが、一つずつ、暴力的に損なわれ始めたのである。

 火曜日の夜。

 元カレから、寄りを戻したいという身勝手なメッセージが届いた。

 それを見た瞬間、里奈の手の中でスマートフォンが熱を帯びた。

「熱っ……!」

 慌てて床に放り出すと、スマホのバッテリーが異常膨張し、内部からメリメリと画面を押し割った。

 焦げた臭いが漂い、液晶が真っ黒に染まっていく。

 ふと視線を感じて振り返ると、棚の上に座るクマがいた。

 クマのボタン目が、割れたスマホを嘲笑うように光っていた。


 金曜日の午後。心配して訪ねてきた友人の香織が、里奈の部屋でティーカップを手に取ろうとした時だ。

「きゃああああっ!」

 突然、香織が椅子から転げ落ちた。何もない平坦なフローリングで、激しく足を滑らせたのだ。彼女は運悪く、テレビ台の鋭利な角に後頭部を強打した。

「香織! 大丈夫!?」

 駆け寄る里奈の視界に、信じられないものが映った。

 香織が転倒した場所のすぐ近く。クマのぬいぐるみが、香織の脱ぎ捨てたストッキングの端を、その短い手でぎゅっと握りしめていたのだ。

 香織は血を流しながら、恐怖に顔を歪めて叫んだ。

「あの、ぬいぐるみ……今、足を引っ張ったの。あいつが、私を転ばせたのよ!」

「そんな、まさか。ぬいぐるみだよ?」

 里奈は言い聞かせたが、香織は怯えきった様子で、手当もそこそこに逃げるように帰っていった。

 一人残された部屋。里奈は震える手でクマを取り上げた。

「……あんたなの? あんたがやったの?」

 問い詰める里奈の指先を、鋭い痛みが襲った。

 クマの腕の継ぎ目から、無数の錆びた縫い針が突き出していた。

 里奈の指先から鮮血が溢れ出し、ベージュ色の毛並みに染み込んでいく。

 クマはその血を吸い上げるたび、微かに、ドクン、ドクンと鼓動を打った。

(里奈、里奈)

 頭の中に、脳を直接爪で引っ掻くような掠れた声が響く。

(他のモノはいらない。お前を傷つける過去も、お前を連れ出す他人も)


(全部、僕が消してあげる。だから僕だけを見て)


 恐怖に駆られた里奈は、クマをゴミ袋に詰め込み、ガムテープで幾重にも巻いて、夜のゴミ捨て場に投げ捨てた。

 雨の中、泥水に浸かるゴミ袋を背に、里奈は一心不乱に走った。

 部屋に戻り、すべての鍵を閉め、布団を被って震えた。

 これでいい。あんなものは捨てた。明日になれば収集車が持っていってくれる。


 しかし、静まり返った深夜二時。

 玄関のドアの向こうから、奇妙な音が聞こえてきた。

 ペタッ、ペタッ、ズズッ……

 濡れた布が床を這うような、不快な足音。

 音はドアの前で止まり、カチャリ、と鍵が回る音がした。

 絶望的な恐怖で硬直する里奈の前で、寝室のドアがゆっくりと開いた。

 そこには、全身を泥と雨水で濡らし、引き裂かれたゴミ袋を引きずったクマが立っていた。

 クマのボタン目は、憎悪と執着に塗りつぶされた、底なしの暗闇を湛えている。

(捨てようとしたね)

 声が響くのと同時に、部屋の明かりがすべて消えた。

 闇の中で、カサカサという音が無数に聞こえる。それはクマが這い寄る音ではなく、里奈の部屋にある「物」が消えていく音だった。

 服、写真、思い出の詰まった品々。

 里奈の人生を構成していたすべてのピースが、暗闇という怪物に咀嚼され、消滅していく。


 翌朝、そのアパートの一室からは、一切の音がしなくなった。

 大家が合鍵で入った時、そこには家具一つ、カーテン一枚すら残っていなかった。

 ただ、部屋の中央に、一抱えほどもある「新しい」ぬいぐるみが座っていた。

 以前よりも一回り大きく、肉厚になったそのクマのぬいぐるみは、ベージュ色の毛並みの下に、明らかに人間と同じ骨格の凹凸を宿していた。

 そして、ぬいぐるみの頭部からは、里奈のものと全く同じ質感の黒い髪が、一房だけ、皮膚ごと縫い付けられたかのように生えていた。

 ぬいぐるみのボタン目は、満足げに、空っぽになった部屋を見渡している。


 もう、彼女を奪うものは何もない。

 永遠に、彼は彼女を独り占めできるのだ。

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