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軋む十三段目 5

5 昇降口の生還


 拓海は、もつれる足を動かし、四階の廊下を這うようにして進んだ。

 腕の火傷跡のような文字が、心臓の鼓動に合わせて熱を帯び、彼をある一点へと引き寄せる。

 行き先は、わかっていた。すべての始まりであり、終わりである場所。

 北階段だ。

 階段の前に辿り着いたとき、そこにはもはや「校舎」という概念は存在していなかった。

 一段一段のステップが、人間の剥き出しの「歯」や「舌」で構成され、手すりは湿った背骨のようにうねっている。

 天井からは、無数の録音テープが死者の髪の毛のように垂れ下がり、それらが擦れ合うたびに「サア、サア」と、誰かの名前を呼ぶような音がした。

 拓海は一歩、その肉の階段に足をかけた。

 一段、二段……

 踏みしめるたびに、階段が「ギャリッ」と短い悲鳴を上げる。

 踊り場に着いたとき、歴代校長たちの肖像画はすべて額縁を突き破り、中身のない巨大な「耳」へと変貌していた。それらが一斉に拓海の方向を向き、彼の内側で鳴り響く絶望の旋律を、恍惚とした様子で吸い取っていく。

「……九、十、十一、十二」

 拓海は、三階へと続く最後の一段の前で足を止めた。

 そこには、虚空があった。

 三階の廊下へと繋がるはずの場所には、真っ黒な、音さえも吸い込む「無」の穴が口を開けていた。

 拓海の腕の文字が、これまでで最も激しく発光し、皮膚を突き破って実体化した。

 青黒い血管のような「線」が宙を舞い、穴の縁に絡みついて、おぞましい質感を持った「十三段目」を編み上げ始めた。

 それは、これまでの犠牲者たちの断末魔を固めて作った、絶望の終止符だった。

 十三段目が完成した瞬間、校舎中の音が消えた。

 完全な、そして暴力的なまでの静寂。

『さあ、踏みなさい。それで、すべてが完結する』

 背後から、これまで出会った化け物たちの声が重なり合って聞こえた。

 階段の下からは、耳だらけの人体模型が、文字に埋め尽くされた女子生徒が、そしてテープに巻かれた少女が、音もなく、しかし確実な殺意を持って登ってくる。

 拓海は、眼前の十三段目を見つめた。

 その段差の表面には、ひび割れた鏡のような膜が張られていた。そこには、いまや人ならざる姿に変貌しつつある自分の姿が映っている。

 左耳にはレンズが埋まり、腕は文字に侵食され、瞳からは光が消えかけている。

「……俺は、お前らの……一部にはならない」

 拓海は、十三段目を踏み抜くのではなく、自らの左耳に埋まった「接眼レンズ」を、震える手で無理やり引き抜いた。

 ブチッ、という肉が千切れる音が静寂を切り裂く。

 凄まじい激痛が走ったが、彼はそのレンズを、眼前の十三段目へと力任せに叩きつけた。

 レンズは、旧校舎のすべての狂気を凝縮して覗き続けてきた「特異点」だった。

 それが砕け散った瞬間、閉じ込められていた光と音が逆流を始めた。

 パリン! という音と共に、十三段目が粉々に砕け散る。

 そこから溢れ出したのは、これまでこの階段が飲み込んできた「本来の音」たちだった。

 鳥の声、雨の音、生徒たちの笑い声、日常の何気ない足音。

 それらが濁流となって溢れ出し、校舎を構成していたおぞましい肉と骨を押し流していく。

「う、うあああああああ!」

 拓海は、崩壊する空間の中へと身を投げた。

 視界が反転し、重力が消失する。

 数千、数万という「音」が、彼の体を、腕の文字を、耳の傷を、洗い流していくのを感じた。


 目が覚めると、拓海は昇降口の外、冷たいアスファルトの上に倒れていた。

 空には白々と夜明けの光が差し始め、新聞配達のバイクの音が遠くで聞こえる。

「……生きてる、のか?」

 彼は自分の腕を見た。そこには文字の跡も、火傷の痕もない。

 左耳に手をやると、レンズの感触も消えていた。

 ただ、右耳の奥にだけ、微かな「耳鳴り」が残っていた。

 それは、遠い昔に聞いた、優しい沈丁花の香りを伴う誰かの鼻歌のようでもあった。

 拓海は立ち上がり、ゆっくりと旧校舎を振り返った。

 そこには、朝日を浴びて静かに佇む、古びた、しかしごく普通の建物があった。

 北階段の窓を見上げても、そこには誰もいない。

 だが、彼は気づいてしまった。

 昇降口に置かれた自分の靴。その踵には、あの日刻まれた「歯形」が、以前よりも深く、はっきりと残っていることに。

 拓海は学校の門をくぐり、一度も振り返らずに家路についた。

 彼の背後で、校舎の時計台が午前六時を告げる鐘を鳴らした。

 その鐘の音に混じって、一段、一段と、誰かが階段を「降りてくる」音が聞こえたような気がしたが、彼は二度と、その音を「聴く」ことはなかった。


 旧校舎の北階段は、その翌月、老朽化を理由に完全に取り壊された。

 解体作業に当たった作業員たちは、一様に不気味な証言を残している。

「階段の段数を何度数えても、人によって十二段だったり、十三段だったりした」

 と。

 そして、その跡地からは、今も時折、誰もいないはずの空間から、小さな「耳」が芽吹き、白い指が地面を叩く音が聞こえてくるという。

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