第1話 一番やっかいなお化け
一番やっかいな霊ってさ——いや、お化け? 怪異っていうの? まあ呼び方はなんでもいいんだけど、とにかく一番やっかいなのは、結局ADHDなんだよね。ADHDのお化け。
そもそもADHDなんて、昔はそんな言葉もなかったじゃん。俺みたいな生きた化石のおっさんからするとさ、わざわざ病名なんか付けて、話をややこしくしてるだけにしか見えないわけ。昔なんか、もっと落ち着きのないやつがいくらでもいたけど、みんなそれなりに生活できてたんだから。
……当然、このご時世にこんなこと言っちゃったら一発でBANだろうけどさ。BANってのも、もう古いのか? 炎上ね、炎上。
でもまあ、考えてみてよ。このやっかいな霊は、自分のことをADHDだなんて名乗ったわけじゃないんだよ。俺らが勝手にそう名付けただけでさ。
じゃあ、他にもっとましな呼び名があるのか。昔にも似たような怪異がいたのか。そう聞かれると——ないんだよ、これが。少なくとも俺が聞いて回った範囲じゃ、こんなのはどこにもいなかったんだよね。
ネットにさ、「存在するあらゆるものには、例外なくポルノが存在する。例外はない」って法則があるの、知ってる? ふざけた話だけど、俺は案外真理なんじゃないかと思ってて。で、たぶんこれも、その延長線上にあるんだよ。
『リング』の貞子っているじゃん。あれってビデオテープとブラウン管と家の固定電話——つまり当時の最新テクノロジーで、どこの家にもあった生活インフラに乗っかって生まれた、まさに九十年代の“新しい怪異”だったわけでしょ。
だったらさ。ADHDって言葉がこれだけ世の中に行き渡って、みんなの頭の中にひとつの概念として根を張っちまった今、そこから新しい怪異が湧いてきたって不思議じゃない。時代精神っていうか、みんなの思い込みの吹き溜まりから生まれた、新しいお化け。
……かもしれない、って話ね。あくまで俺の仮説。
あ、先に言っとくと、俺は別に霊能者でもなんでもないからね。
今でこそ「霊探偵」なんて呼ばれてるけど、それだってある人が勝手にそう呼び始めただけで、本業はしがない私立探偵。浮気調査と、ペット探しと、たまに家出人。霊なんてもんとは、ついこないだまで縁もゆかりもなかったわけ。
発端は、知り合いの除霊師だ。
辻っていう。俺と似たような歳で、腕は確からしい。らしい、ってのは、俺には霊が見えないから確かめようがないってだけの話でさ。
大阪の真ん中あたり、古い雑居ビルの三階に事務所を構えてて、看板も出してないのに、なぜか客は途切れない。
ついでに言うと、俺のことを「霊探偵」なんて呼び出したのも、こいつだ。
その辻が、ある日ふらっとうちの事務所に来て言ったわけ。
「逃げられてん」
除霊の依頼を受けて、依頼人の家で霊と向き合ってる最中に、その霊が——ふいっと、どっか行ってしもたんやと。
これがどれくらいありえない話かっていうとさ。
辻によれば、霊ってのは基本的に何かに執着して、そこに固定されてるもんなんだって。特定の場所、特定の物、特定の人。あるいは特定の時間。夜中の二時になると出る、とかね。
で、あちこち移動するには、基本的に“乗り物”が要る。媒体ってやつ。呪いの人形とか、それこそ貞子のビデオテープとか、取り憑いた人間そのものとか。
ところがその霊は、何にも乗らずに、勝手に、ふらっと出ていったわけ。
「ありえへんねん。ほんまに」
辻は何度もそう言った。
ここで辻の除霊のやり方を説明しとかないと、たぶん話が見えないと思うんだよね。
除霊のやり方なんて、人によって全然違うんだろう。お経を上げるやつもいれば、塩を撒くやつもいるでしょ。辻のはちょっと変わってて——霊に“気づかせる”んだそうだ。
何に気づかせるかっていうと、座標系。
……うん、わかる。俺も最初はそういう顔したよ。
たとえば新幹線に乗ってて、座席でみかんを真上に放り投げたとするじゃん。みかんはちゃんと手元に落ちてくる。車内の人間からすれば、みかんは真上に上がって、真下に落ちただけ。
でも線路脇に突っ立ってるやつから見たら、そのみかんは時速二百八十キロで真横にすっ飛んでるわけ。
どっちが正しいかっていうと、どっちも正しい。何を基準にして見るかの違いでしかない。その「基準」の決め方が、座標系ってやつ。
で、地平座標系ってのがある。自分の立ってる地面を基準にして、東西南北と、地平線からの高さで物の位置を決めるやり方。星を見るときなんかに使うらしい。
この座標系だと、地面は一ミリも動かない。動いてるのは太陽とか星の方。要するに、天動説の見え方そのまんまってわけ。
俺らは普段、ほとんどこの感覚で生きてる。足元の地面は止まってるもんだと思ってるじゃん。
ところが実際は、ここ大阪の地面は、地球の自転だけで東に向かって秒速三百八十メートルくらいで動いてる。音速より速い。そのうえ地球ごと、太陽の周りを秒速三十キロ。さらに太陽ごと、銀河の中を秒速二百キロちょい。
じゃあさ。
何十年も「ここ」に居座ってる霊ってのは、いったい何に対して「ここ」にいるんだ?
体もない、重さもない、足も地面についてないはずのやつが、なんで地球の自転にも公転にも律儀について回って、毎晩同じ廊下の同じ曲がり角に立っていられるのか。物理的には、まるで説明がつかないわけ。
辻にもわからない。たぶん、当の霊たちにもわかってないんだよね。
辻は、それを霊にわからせる。
「あんたがずっとおる思てるその場所な、一秒前のとこと、もう全然ちゃうとこやねんで」
みたいなことを、懇々と。図まで描いて。
で、霊が本当に納得した瞬間——消える。
辻が言うには、消えるっていうより、遠ざかるんだそうだ。光の速さで。
地面に置いてかれる、ってことなんだろうな。自分だけ地球の座標から外れて、宇宙のどこか、本当の意味で止まってる場所に取り残されるってわけ。
まあ、納得はいく。……いや、俺が納得していいのかは知らないけど。
話を戻すよ。
除霊の途中で、霊がいなくなった。依頼人からすれば、辻がうまいことやってくれたように見えたらしい。実際、依頼人の悩みはその日を境にぴたりと止んだんだって。何に悩んでたのかは、守秘義務だとかで俺も聞かせてもらってない。
とにかく、あっけない幕切れ。報酬もちゃんともらった。
でも辻だけは知ってる。霊が祓われたんじゃなく、自分からどっかに出ていったってことをさ。
追いかけりゃいいじゃん、って思うでしょ。俺も言った。
辻いわく、それができたら苦労せえへん、と。
「トンボ追っかけんのとはわけがちゃうねん。シャボン玉や、シャボン玉」
ふわふわ漂ってて、どっちに流れるか読めなくて、目で追ってるつもりでも気づいたら見失ってる。手を伸ばせば割れる。割れたと思ったら、別のところにまた浮いてる。
それに、目の前には依頼人がいるわけで。「すんません、霊が逃げたんで追っかけてきます」なんて言って家を飛び出すわけにもいかない。かといって説明しようにも、説明のしようがないじゃん。
で、困り果てた辻が、なにを思ったか訪ねてきたのが——人探しのプロ、この俺ってわけ。
霊探しのプロじゃないよ。人探しのプロ。
何の冗談だ、と思ったね。
まあ、なんだかんだで引き受けちまって、辻と一緒にそいつの足取りを少しずつ追ってるうちに、わかってきたことがいくつかある。
まず、あいつには悪意がある。……たぶん。
ただ、その興味の向く先がころころ変わる。だから悪意なのか、好奇心なのか、単にそのとき目に付いたってだけなのか、それすら区別がつかないわけ。
で、もっと厄介なのは——あいつに触れられたもの、あいつの関心を引いちまったものには、あいつの意図とは関係なく、ろくでもないことが起こるらしいってこと。呪い、っていうより、“影響”に近い。
これも推測にすぎないんだけどね。
なんで推測止まりかっていうと、それが当人がもともと抱えてた問題のせいなのか、あいつのせいなのか、確かめようがないから。
しかも、関心の移り変わりがどんどん短くなってる。こうなるともう、どこからどこまでがあいつの仕業なのか、さっぱりわからないんだよね。
ほら、よくあるじゃん。健康オタクが、体にいいって言われることを片っ端から全部やってたら、どれが効いたのかわからなくなるやつ。良くなったのは確かなのに、何が効いたかわからないから、どれひとつやめられない。
あれの、ちょうど真逆だと思ってくれればいい。
悪くなったのは確か。でも、何のせいかわからない。わからないから、どれひとつ疑いを解けない。
とにかく、だ。
あいつの“影響”を受けたと思われる最初の例——いや、二番目か——が見つかったのは、辻が依頼人の家であいつを取り逃がしてから、そう日も経たないうちだった。
場所は、そこからそう遠くない寺。
仏像の頭の上に、女が乗ってたんだよ。




