閉鎖区画には、新しい鍵がついていた
地図から消された通路は、現場では律儀に残っていた。
「この先は旧救助導線です。五年前に封鎖されてますよ」
湾岸第六迷宮、地下四層。時刻は月曜の十八時四十七分。
黄色い封鎖テープの前で、施設職員が困った顔をしていた。私が首から下げた事故調査官証を見て、隣に立つ迅さんの黒い手袋を見て、もう一度私を見る。
新人調査官と、免許停止中の元S級探索者。
自分でも、入場を許可したくなる組み合わせではない。
「事故調査室の証拠保全命令です。立入り記録には私の氏名を。黒瀬さんは現場検証補助員として同行します」
「ですが、戦闘免許が」
「戦闘はさせません」
横から低い声がした。
「必要なら俺が先に死ぬ」
「安心材料としては零点です」
即答すると、施設職員が目を泳がせた。
迅さんは冗談を言っていない。だから困る。
「死なない手順で行きます。こちらに署名を」
私は端末を差し出した。
職員が渋々サインし、封鎖テープのロックを解除する。壁の一部にしか見えなかった隔壁が、重い音を立てて横へ滑った。
その向こうに、照明の半分が死んだ細い通路が続いていた。
「真壁。腰の金具」
「外れてますか」
「逆だ。締めすぎだ」
迅さんの指が、私の安全帯の留め具を一段だけ緩める。
「落ちた時に肋骨が折れる」
「落ちなければ問題ありません」
「現場でそれを言う奴から落ちる」
経験者の断言は重い。
私は素直に留め具を確認した。Fランクの戦闘適性しかない私にとって、安全帯は防具ではない。命綱そのものである。
「黒瀬さん。勝手に先行しないでください」
「命令か」
「手順です」
「なら従う」
返事だけは優等生だった。
旧救助導線は、公式図面より二・三メートルほど低い位置を通っていた。
迷宮は成長する。壁を厚くし、通路を曲げ、昨日までなかった段差を作る。人間が作った配管やケーブルを、飲み込んだ骨のように壁面から覗かせる。
私が三歩進む間に、迅さんは十歩先までの床と天井を見ていた。
「右に寄れ」
「理由は」
「左の床が呼吸してる」
床が呼吸するわけがない。
そう思って光を当てると、左側の石板がごくわずかに上下していた。隙間の奥で、迷宮生物らしい透明な膜が縮んでいる。
「報告書には何と」
「踏むと食われる床」
「正式名称をお願いします」
「知らん。現場じゃそれで通じる」
元S級の知見が、急に雑だった。
私は右壁に沿って歩きながら、携帯端末に位置と映像を記録する。迅さんは決して私の三歩以上先へ行かなかった。
免許停止中だから、というだけではない。
振り返る頻度。曲がり角で待つ位置。頭上を確認してから私の足元を見る順番。
この人は、誰かを連れて帰る歩き方を体が覚えている。
「ここだ」
二十分ほど進んだところで、迅さんが止まった。
壁には『M-17 搬送設備区画』と薄く刻まれている。
入口は公式の保守記録では溶接封鎖済みのはずだった。実物には、最近交換された電子錠がついている。
「地図からは消して、鍵だけ新しくした、と」
「几帳面な隠蔽ですね」
「褒めるな」
「評価です」
証拠保全命令の番号を入力すると、電子錠は一度赤く光った。
次の瞬間、迅さんが私の肩を引く。
耳の横を、細い金属片が飛んだ。
扉の隙間に仕込まれていた警告針が、向かいの壁へ突き刺さっている。
「いまのは」
「殺傷用じゃない。封鎖区画に入った奴を識別塗料で染める針だ」
「なるほど。申請なしの侵入者を、あとで見つけやすくする」
「俺たちは申請済みだがな」
「設備が書類を読んでくれなかったようです」
私は針を証拠袋へ収めた。
入る前から一件追加である。報告書だけが順調に育っていく。
M-17は、中央に古い転移台を据えた円形の設備室だった。
天井の保守灯は赤い。床には錆止め粉末が薄く積もり、転移台から北側の隔壁まで、何か重いものを引きずった跡が伸びていた。
白い探索服に付着していたものと同じ、赤褐色の粉末。
私は息を整え、記録を開始した。
「現場検証、十九時十二分開始。M-17搬送設備区画。同行者、黒瀬迅。床面試料を採取します」
採取匙で三か所から粉末を取り、別々の容器に封入する。携帯分析器が走査を終えるまで、四十二秒。
表示された数値は、九十九・九パーセント。
「一致しました。天城さんの装備に付着した錆止め剤は、ここから持ち出されたものです」
「隔壁を見ろ」
迅さんが指した先に、腰の高さほどの擦過痕があった。
粉末が弧を描いて剥がれ、中央だけ白い塗料が残っている。
天城晃の肩当てと、ほぼ同じ高さだった。
私は計測板を当てる。
「衝突痕、床上百三十二センチ。幅二十八センチ。白色塗料の移着あり」
「あいつはここへ飛ばされた」
「まだ仮説です」
「お前の上司も同じことを言うのか」
「『それは事実か、仮説か』が口癖です」
「面倒な上司だな」
「非常に助かっています」
迅さんが、ほんの少しだけ口元を緩めた。




