死者は、二か所にいた
迅さんが、ふいに床へ片膝をついた。
「何をしていますか」
「靴を見てる」
「それは見れば分かります」
「じゃあ聞くな」
白銀装備のブーツ。その靴底へ、赤茶色の粉が薄く詰まっていた。
地上施設の錆にしては粒が細かい。血液なら試薬が反応する。私は採取用フィルムを取り出した。
「検体番号AG6-20391014-07。採取時刻、午前九時三十一分。左足靴底、赤色粉末」
「赤鉛の防錆粉だ」
迅さんが言った。
「現在の公共施設では使用禁止です」
「地上じゃな」
「心当たりが?」
「湾岸第六の古い救助通路で使ってた。改修前の床に撒いて、結露を吸わせる」
「場所を特定できますか」
「たぶんM系統。一般探索区には残ってない」
私は運営会社から提出された施設図を開いた。
A系統、B系統、救助中継区。M系統は表示されない。
「図面にありません」
「なら消したんだろ」
「存在しないとは考えないんですね」
「現場は、図面を消しても消えない」
いかにも記録を信用しない人らしい言葉だった。
なのに、靴底の粉は彼の側にいる。
私は施設資材台帳を照会した。古い資料ほど階層が深く、閲覧申請の理由を三回も入力させられる。秘密を守る仕組みというより、職員の気力を削る仕組みに見える。
七年前の改修記録に、一件だけ該当があった。
保守区画M-17。旧救助中継路。赤鉛系防錆粉を使用。現在は隔壁閉鎖、立入禁止。
画面を見た迅さんの眉が動く。
「そこだ」
「黒瀬さんはM-17へ入ったことが?」
「二年前に一度。崩落事故のとき、正規の救助路が潰れた」
一般人十二名を救い、仲間を一人失った事故。
「記録には、B-09から独断で侵入したとあります」
「記録を書いたのは、現場にいなかった連中だ」
「天城さんは、あなたが撤退命令を無視したと証言しています」
迅さんの顔から、わずかに残っていた表情が消えた。
「知ってる」
「反論は?」
「今する話か」
「あなたの証言の信用性に関わります」
「俺を信用するな。粉を調べろ」
短く言って、彼は検査台から離れた。
逃げた、と判断するのは簡単だった。
でも彼は、自分を信じろとは言わなかった。測れるものを測れと言った。
私は赤い粉の簡易分析を開始した。鉛、樹脂、微量の迷宮石灰。資材台帳のM-17保管試料と、成分比率が九八・七パーセント一致。
事実が一つ増えた。
天城晃の靴は、閉鎖されたM-17の床へ触れている。
けれど公式記録では、昨夜の天城は入場門からB-42へ直行し、一度も保守区画へ入っていない。
歩いて行ったなら、途中のゲート記録があるはずだ。
ないなら、残る移動方法は一つ。
「個人ビーコンを確認します」
私は白銀装備の胸部から、親指ほどの記録端末を取り外した。
「製造番号BCN-77A-41109。取り外し時刻、午前九時五十六分。封印状態、正常」
運営会社の中央記録ではなく、天城本人が身につけていた一次記録。ここが書き換えられていたら、いよいよ私の信じるものがなくなる。
解析端末へ接続する。
位置履歴の復元には数分かかる。その間に、付属端末の通信記録が先に開いた。
未送信メッセージ、一件。
宛先を見て、私は迅さんへ視線を向けた。
「黒瀬さん宛てです」
彼の黒い手袋が、わずかに握られた。
「本文は」
「破損しています。冒頭だけ復元できます」
画面に、短い文字列が浮かび上がる。
――あの日、お前は正しかった。
迅さんは何も言わなかった。
怒るでも、喜ぶでもない。ただ、閉じた検査室の扉を一度見た。出口を確かめる癖なのか、その場から逃げないためなのか、私には分からない。
「続きを復元します」
「先に位置記録だ」
「いいんですか」
「死因と謝罪を混ぜるな。あいつが何を書いても、傷の形は変わらない」
私は無意識に、主任を見た。
「事実と仮説を分けろ、か」
「いえ」
私は位置履歴の復元を実行した。
「それより少し、難しい話です」
人間の言葉は、記録より曖昧だ。
けれど、曖昧だから価値がないわけではない。少なくとも黒瀬迅の言葉は、いま私が何を優先すべきかを正しく指していた。
復元された位置履歴が、空中に二本の線を描く。
青い線は、公式記録どおり入場門から一般探索区B-42へ伸びている。
赤い線は、存在しないはずの分岐を通って地下へ落ちた。
「そんな経路はない」
主任が言った。
「中央台帳にはありません」
私は時刻を拡大した。
二十三時十四分十七秒二〇四。
装備時計が止まった、その瞬間。
天城晃のビーコンは、一般探索区B-42と保守区画M-17の二地点に同時に存在していた。
重複時間、〇・八秒。
迅さんが低く息を吐く。
「魔物じゃないな」
「はい」
私は事故分類画面を開き、暫定判定の「魔物災害」を保留へ変更した。
S級探索者の死体には、魔物の痕跡がない。
代わりに残っていたのは、消された通路と、止まった時間と、二つに裂けた現在地だった。
「天城さんは、公式記録上の遭遇時刻より前に転移しています」
「どこへ」
私は赤い線の終点を指した。
「立入禁止区画M-17です」
そこは七年前に閉鎖され、昨夜は誰も入っていないことになっている。
なら、次に調べるべきことは一つだった。
誰が、天城晃を存在しない経路へ送ったのか。




