その爪痕は、狼のものではない
初対面から評価票を返された。
私は彼の検証員証を読み取り、利害関係の確認画面を開く。
「被害者の天城晃さんとは、二年前まで同じ探索班。あなたの処分審査で、天城さんは命令違反が隊員の死亡を招いたと証言しています。相違ありませんか」
「ない」
「天城さんを恨んでいましたか」
主任が止めるより早く聞いた。
迅さんは検査台を見た。長くは見なかった。
「恨んでいた」
警備員の姿勢が変わる。
私は画面へ、そのまま入力した。
「現在も?」
「死んだからって、過去まで善人になるわけじゃない」
「では、検証から外れますか」
「お前が決めろ、調査官」
挑発というより、本当にどうでもよさそうだった。自分が疑われることに慣れすぎている人の顔だ。
記録だけを見れば、外す理由は十分にある。
けれど、記録だけでは分からない傷が目の前にある。
「利害関係を開示したうえで、検証を続行します。発言は単独で証拠に採用しません。すべて私が再検査します」
「好きにしろ」
「あと、証拠品には許可なく触れないでください」
伸びかけていた黒い手袋が止まった。
「……見てただけだ」
「手で?」
「現場じゃ普通だ」
「ここでは異常です」
主任が顔を背けた。たぶん咳を我慢したのだと思う。
私は鎧を撮影台へ移し、迅さんに正面と側面を見せた。
「公式には鋼殻狼による裂傷です。残留魔素は二種類の試薬で陰性。洗浄痕もありません」
迅さんは返事をせず、腰を落として傷を見た。
近い。けれど触れてはいない。
右端の傷から中央、左端へ視線が動く。次に三本の始点。終点。装甲板の継ぎ目。
「爪痕じゃない」
「爪痕には見えます」
「鋼殻狼のじゃない」
「そこは重要なので、最初から省略しないでください」
「理由を」
「間隔が同じすぎる」
私は計測画面を重ねた。三本の傷の間隔は、始点で四・八センチ、中央で四・九センチ、終点で四・八センチ。
「鋼殻狼は獲物へ食いつくとき、肩を内側へ絞る。爪の間隔は先へ行くほど狭くなる。こいつは平行だ」
「装備表面を滑った可能性は?」
「その深さなら中央が浅くなる。全部、同じ深さだ」
解析光を当てる。深度は最大七・二ミリ。誤差は〇・一以内。
迅さんの言葉と、測定値が一致した。
「つまり?」
「鋼殻狼を見たことのない人間が、狼らしく付けた傷だ」
「細かいな、新人」
「死因を調べていますので」
少しだけ、迅さんの口元が動いた。
笑ったのか、面倒な相手だと思ったのかは記録できない。記録できないものを判断材料にしないのが私の流儀だった。
少なくとも、今日の午前中までは。
私は装甲の傷を三次元走査し、迅さんの説明を検証仮説として保存した。
爪痕は偽装された可能性がある。
では、本当の損傷はどれだ。
白銀装備の胸部を拡大すると、爪痕の下にわずかな波形の歪みが見えた。切断でも打撃でもない。素材の分子配列が、一瞬だけ別方向へ引かれたような変形。
私は鎧の内蔵時計へ接続した。
「装備記録を開きます。黒瀬さん、画面から一歩下がってください」
「触ってない」
「圧が強いです」
「機械は緊張しない」
「担当者がします」
彼が半歩だけ下がった。
装備の稼働ログが、細い光の帯になって宙へ浮かぶ。心拍、魔素循環、外圧、温度。二十三時十四分十八秒に大きな衝撃。運営会社の記録と一致する。
最初は、そう見えた。
「主任。装備時計と中央標準時の差分を再計算します」
「何かある?」
「一秒だけください」
「一秒で足りるのか」
「〇・八秒です」
装備時計は二十三時十四分十七秒二〇四から、十八秒〇〇四まで進んでいなかった。
故障して止まったのではない。その前後では正常に動いている。時間だけが〇・八秒、きれいに欠けている。
そして時計が再開した瞬間、胸部と左脚の空間圧センサーが同時に上限を振り切っていた。
「鋼殻狼との遭遇記録は、二十三時十四分十八秒でしたね」
「ああ」
「その直前に装備時計が〇・八秒停止しています。外圧異常は時計の再開と同時です」
主任の目が細くなった。
「事実は?」
「時刻欠損と圧力異常。原因は未確定です」
「仮説は」
私は答える前に、父の設計ノートで何度も見た図を思い出した。
人体と装備を同じ座標系へ移すとき、転移先に十分な空間がなければ、装備側の時計に一秒未満の同期欠損が出る。だから父は、転移前に人体と装備が収まる空間を検査する手順を作った。
真壁式空間容積検査。
父の名前を口にすれば、私は父の無実を証明したがっている娘になる。
証拠より先に、物語ができてしまう。
「まだありません」
私は言った。
迅さんがこちらを見た。
「転移事故を疑ってる顔だ」
「顔は証拠になりません」
「便利な返事だな」
「便利なので規則になっています」
言い返しながら、白銀装備の左脚を検査台へ固定した。
外側には爪痕がない。それなのに、膝から下の装甲だけが内向きへ歪んでいる。転移ショックなら説明できる。だが、いまはまだ説明できるだけだ。




