ep.9 馬と彼女と彼の距離
朝食の時間も終わり、外出の準備を済ませると言うマリアベルを見送ったセオドールは、新聞と珈琲を片手にゆったりとした時間を過ごしていた。
(ふう……アイゼンハルト家でこんなにリラックス出来る日が来るなんて、思わなかったな……)
セオドールがふと窓の景色に目を向けた時、侯爵家の使用人が彼に声を掛けた。どうやらマリアベルの準備が済んだという事で、彼は使用人に案内されて屋敷の外へと出た。
するとそこには、ある筈の馬車は無く、マリアベルの姿もない。
「……? マリアベルはどこだ?」
セオドールが首を傾げていると、遠くからパカパカと馬の蹄の地面を鳴らす音が聞こえてきた。彼はその音の方へ顔を向ける。
「セオドール様、お待たせいたしました」
なんと、マリアベルが馬に乗ってやって来たではないか。セオドールは驚く表情を浮かべて、騎乗服を着た彼女を見つめた。
「……君、馬に乗れるのか?」
「えぇ。子供の頃は領地でよく駆け回っておりました」
マリアベルは慣れた様子で馬から優雅に降りると、相変わらず冷えた表情で続けた。
「セオドール様が早くいらしてくださったお陰で、今の時間からなら馬で走ればあちらに日が沈む前に到着出来そうです。たまには気分転換に乗馬も良いでしょう」
そう説明するマリアベルの話を耳に入れながらも、セオドールは意外性を感じて彼女から目が離せなかった。
なぜならセオドールの知る令嬢とは、進んで乗馬を嗜むものではないからだ。中には嗜む令嬢も一部いるだろうが、それは恋人や婚約者とのデートの一環として……つまり、二人の心と体の距離を縮める為の恋愛装置のようなもの。
(そ、そうか……マリアベルから積極的に来てくれるとは……)
だからセオドールはつい照れてしまい、頬を赤くして俯いた。
彼は当たり前に、馬に二人乗りするのだと思っていた。
パカ、パカ、パカ……
二頭目の馬が現れるまでは。
(……なるほど。彼女は普通の令嬢ではなく、マリアベルだものな)
セオドールの期待は打ち砕かれ、彼は諦めに近い顔でその馬を見つめる。
「呆けていらっしゃいますが……いかがなさいましたの?」
立ち尽くすセオドールを、眉を顰めて不思議そうに見つめるマリアベルが彼に声を掛けていた。
気を取り直したセオドールが二頭の馬を見ると、彼らが通常の馬よりも大柄な事に気付いた。マリアベルが乗った馬はもう一頭と比べると幾分小柄ではあるが、それでも大きい。
彼の視線に気付いたからか、マリアベルが説明した。
「父がよく乗馬を楽しむもので……通常の馬ですと、あの筋肉に包まれた二メートル越えの男性を背に乗せて走るには、少し不足を感じますわ」
なるほど、とセオドールは納得した。ジークフリドは稀に見る大男で、背が高いセオドールよりも更に高く、そして大きい。彼だと普通の馬では満足出来ないだろう。
「ですので、アイゼンハルト領では軍馬の生産が盛んでして、王国内でも大きな馬産地を所有しているのですよ」
この子達はその中でもより大きい方ですけれど、とマリアベルは言葉を締め括り馬の顔を優しく撫でてやっていた。
セオドールは、ジークフリドの功績ばかりに目がいっていて、アイゼンハルトには大きな馬産地がある領地だとは知らず、婚約者として無知な事に恥ずかしさを覚えた。
(俺は本当に、マリアベルの事を何も分かっていなかったんだな……)
そう思いながら、馬に優しい表情を向けるマリアベルを見つめる。
マリアベルはジークフリドと同じ髪色と似た赤色系統の瞳を持っている。それに、父親に似て背も高く、他の令嬢達と並べば彼女は頭ひとつ分出ている。
彼女の乗馬服姿は凛々しくて美しい。それにスタイルも良く、スラリと伸びた長い足に、出るところは出て、引き締まるところは引き締まっていて……
(って、俺は何を考えているんだ‼︎)
顔を真っ赤にしたセオドールは、慌ててマリアベルの騎乗服姿から目を逸らす。
これまで彼女のドレス姿しか見た事がなかったセオドールだから、体の線が見て取れる騎乗服姿の彼女に心臓がばくばくと高鳴って仕方がなかった。
「セオドール様。先ほどから何を呆けていらっしゃいますの?」
気付けば馬に乗った彼女が、手綱を引きながらセオドールを見下ろしている。
「早く向かいませんと……日が暮れてしまいますわよ!」
そう言って笑顔を浮かべる彼女は、彼が知る『完璧令嬢』でも『軍人娘』でもない笑顔で……セオドールは眩しそうに思わず目を細める。
その瞬間、なぜか本当のマリアベルの笑顔を見た気持ちになったのだった。
二人がアイゼンハルト領に到着したのは、太陽が赤く染まり始めた頃だった。
途中で一度の休憩を挟んで以降は、馬を走らせ続けてここまでやって来たので、さすがの騎士隊長であるセオドールも乗馬に慣れているとはいえ、多少の疲れを感じていた。
(婚約者との乗馬の筈が……まるで軍隊の訓練か何かのようだった……)
少し顔色を悪くしながらこれまでの道中を思い返すと、セオドールの顔色は更に悪くなる。
「お疲れ様でございました」
マリアベルは相変わらずの澄ました表情で、馬から降りた。セオドールは返事を返す気力もなく、体力というよりは精神的に疲れた表情で馬を降りる。久しぶりに踏み締めた大地が、とても恋しく感じた。
「……本日は貴方も初めてのアイゼンハルト領ですし、心身ともにしっかり休養をとり、教育は明日から始めましょう」
セオドールの様子を見て気遣う姿を見せるマリアベルに、彼は素直に頷いてお言葉に甘える事にした。
「……君は疲れないのか?」
まるで鉄人に向けるような目でマリアベルを見るセオドールに、彼女は特に表情を変える事なく言った。
「勿論、多少は疲れておりますけれど……三年前に初めて王都に来て以来、今日まで何度も乗馬で領地と行き通いしておりましたので、今では慣れてしまった、という表現が自然でしょうね」
「そうか……」
セオドールは昨日からマリアベルに何度も驚かせられており、もう胸がいっぱいで……何だかどっと疲れを感じた。
「悪いが、俺は少しの間休養を取らせてもらうよ……」
彼は少しふらついた足でそう言うと、屋敷の使用人の案内で二階の客間へ向かったのだった。
そんなセオドールの後ろ姿を静かに見つめながら、マリアベルはふと感じた事を思った。
(……楽しかった)
マリアベルも普段は、王都から領地までの距離を一度の休憩だけで走り抜けたりなんてしない。でも、今日の彼女は疲れも吹き飛ぶくらいに楽んでいたから……休憩するのも惜しく、そのまま走行してしまった。
(セオドール様との乗馬は、思いがけず楽しかったわ……)
誰かと走る乗馬は久しぶりで……それにマリアベル並みに馬の操縦に長けているセオドールが相手だからこそ、彼女も心の底から乗馬を楽しむ事が出来ていた。
(こんな事、ルシアン殿下が相手じゃ出来ない事だものね)
マリアベルの長年の友人であるルシアンは活発な人ではないため、彼と過ごす時は主に室内で過ごす事が多いのだ。
だから余計にマリアベルはセオドールとの今の時間に満足していた。しかし、同時に自分の気分が上がり、それによってセオドールを振り回してしまった自覚もある為……
(料理長に、今晩の晩餐は体力の付くものを多めに用意するよう頼んでおきましょう)
少しばかり、罪悪感を感じていた。




