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ep.10 教官としての矜持

 ◆



 まだ太陽も出ていない薄暗い早朝……


「……セオドール様、お目覚めください」


 聞き慣れない執事の呼び掛け声でセオドールは目を覚ます。


(……どこだここは……そうだった。昨日、マリアベルと共に侯爵領に来たのだったな……」


 セオドールは寝ぼけた様子で見慣れない部屋に疑問を抱くも、すぐに昨日の事を思い出し再び瞼を閉じる。


「セ、セオドール様っ……」


 執事が焦った声を出した瞬間……バァン!


 部屋の扉が大きな音を立てて勢いよく開いた事で、セオドールは今度こそ跳ね起きた。


「セオドール様。お目覚めくださいな」

「……マ……マリアベル……?」


 驚きで忙しなく動く心臓を押さえて、セオドールは呆然としながら室内に入ってくるマリアベルを見上げていた。


 薄暗い部屋に入ってくる彼女は、冷えた笑顔を浮かべたままセオドールの元へと向かって来る。


「さぁ、ご準備ください。教育を開始致しますわ」


 よく見ると彼女は、令嬢には有るまじき軍服を着用していた。それに……セオドールは呆然とした表情のまま、窓の方へ顔を向ける。空は暗い。なんなら、薄らと月がまだ出ているではないか……


「……今、何時なんだ……それに、君のその格好は……?」

「只今は午前五時を過ぎた頃です。この姿は、動き易いものとしてアイゼンハルト領の兵士が着用しているものと同じものですわ」


 マリアベルがすぐに答えてくれたが、それでもセオドールの理解は追い付かず彼は相変わらず呆けたままだった。


 確か昨日、彼はアイゼンハルト領に到着し、少し休養を取った後、マリアベルと晩餐を共にした。

 それはとても豪華な晩餐で、異様に肉料理が多かった事を覚えている。その時に、マリアベルが言った言葉も覚えている。


『明日の朝から厳しい教育が待っているのですから、たくさん食べてくださいね』


 それどころか、彼女はわざわざ彼の皿に肉を取り分けてくれたのだ。マリアベルなりの不器用な気遣い方なのだとセオドールは嬉しく思い、楽しい晩餐を過ごした……筈だった。


「……確かに教育が始まると言っていたが、まさか早朝五時起床だとは誰も思わないだろうよ……」


 王国騎士団の早朝訓練でもここまで早くないぞ、とセオドールは思った。


 マリアベルは無表情のままセオドールを見つめていたが、彼女の白くて細い指が伸びてきて、セオドールの胸元に添えられた。


 セオドールはドキリと胸を高鳴らせるのだが、マリアベルのしなやかだった指が牙を剥き、彼の胸元をぐいと掴み上げる。


「……私、確かにお伝えした筈ですよ。『軍隊式教育』だと……甘えた事を仰らないで、いい加減ご準備なさい」


 グッと顔を近付けてきて、その薔薇色の瞳で凄まれたセオドールは、彼女の威圧感に「はい……」と、素直に頷く事しか出来なかった。


 慌てて準備をしたセオドールを待っていたのは、長距離ランニングだった。


(俺は一体、何しにこの領まで……?)


 更に驚いたのが、走者はセオドールだけでなくマリアベルも共に走るというではないか。

 女性の身にこの距離は酷だと思ったセオドールが、彼女を気遣って一人で走ると断ろうとすると、なぜかマリアベルは不機嫌そうに眉を顰めていた。


「私は今、セオドール様の教官です。教官として、私には生徒を導く義務があります」


 そう言われてしまっては、セオドールもそれ以上口を出す気はなかった。


「それにしても、なぜ婚約者教育がランニングから開始なんだ……」


 セオドールが少し愚痴っぽくぼやくと、それを聞いていたマリアベルがすぐに答える。


「私達に今必要なものは『相互理解』。そして、清らかな婚約生活です」


 マリアベルの表情は真剣そのものだ。


「清らかな婚約生活には健全な精神が必要ですわ。そして、健全な精神は健全な肉体に宿ると言いますでしょう?」


 得意げにそう語るマリアベルを見て、セオドールは思った。


(その理屈でいくと、騎士団員全員が君の理想の婚約者になってしまうのでは……?)


 なんて事をふと考えてしまうのだが、セオドールは慌てて考えを切り替えた。




 約二時間のランニングは滞りなく進んで完了した。


(久しぶりに、こんなに体を動かしたな……)


 セオドールは汗に濡れたシャツを脱ぎ、それで額の汗を拭う。最近のセオドールは、王国騎士団の訓練でも隊長として部下達の訓練の指南役に回る事が多く、こんなに汗をかくのは久しぶりだった。


 暗かった空はいつの間にか明るくなっており、朝日が眩しい。セオドールの鍛えられた体が照らされていた。


「…………」


 彼の隣には、マリアベルがいた。セオドールが突然シャツを脱ぎ出したから驚いたのも束の間、見事な腹筋が目に入りマリアベルはそっと目を逸らす。


「……そんなお姿、はしたなくてよ」


 マリアベルの冷たい叱責に、セオドールはハッとして慌てて濡れたシャツを着直した。


「悪い! 騎士団での癖が、つい……」


 濡れて着心地の悪いシャツに眉を顰めながら謝るセオドールは、マリアベルに目を向けて、彼女の耳先がほんのり赤くなっている事に気付く。


「……申し訳なかった。今後は特に注意するよ」


 セオドールもなぜか気恥ずかしくなり、俯くように彼女から目を逸らした。


 二人の間で気まずい、何とも言えない雰囲気が漂っていると……セオドールを起こしに来ていた執事がやって来て、二人にタオルや飲み物、そしてセオドールには新しいシャツを渡した。


「準備がいいな。ありがとう」


 セオドールはそれらを受け取りながら、執事の気遣いに礼を言うと、執事は柔らかな笑顔で答える。


「お嬢様はこちらに帰ってきますと、いつも体を動かしていらっしゃいますから……私共もすっかり慣れてしまいまして……」


 執事の話を聞いて、セオドールは彼から少し離れた所で大きな岩に腰を下ろし、水分を取りながら休憩しているマリアベルに目を向けた。


(そうか……ランニングは元々彼女のルーティーンだったのか……)


 王都の貴族に、巷を騒がす『完璧令嬢』の素顔を知っている者が一体どれ程いるのだろう?

 セオドールもつい最近まで、当たり前に知らない側の人間だった。


(『完璧令嬢』の彼女より、今の伸び伸びとした彼女の方が、よっぽど魅力的だな……)


 どんな場所でも凛と咲く彼女はとても美しいけれど、着飾っていなくても、汗に塗れていても、今朝日を浴びて輝いている彼女の方が魅力的だと思った。


 セオドールはハッと気付き、慌てて執事に渡された新しいシャツに着替えると、マリアベルの元へ行く。


「マリアベル。休憩はもう切り上げてくれていいから、そろそろ屋敷に戻ろう。じゃないと、君が風邪を引く」


 セオドールと違ってマリアベルは屋敷に戻らないと着替えられない。彼の申し出に、マリアベルは静かに頷いて立ち上がった。


「——っ!」


 しかし、マリアベルが腰に力を入れた瞬間、彼女はふらついて転びそうになったので、セオドールが慌てて抱き止める形で阻止する。


「大丈夫か?」

「も、申し訳ありませんわ……」


 マリアベルは戸惑った様子で、セオドールから離れようと彼の胸を手で押した。けれど、その手には力が入っておらず余りにも非力だった。

 セオドールはマリアベルの体調が悪いのかと心配して彼女を観察すると、彼女の足がガクガクと震えている事に気付いた。


「……もしかして。走り過ぎて、膝が笑っているのか?」


 その瞬間、マリアベルの耳が真っ赤に染まった。そして、悔しそうな表情を浮かべている。


「…………貴方の……」


 暫く黙っていたマリアベルがポツリと話し始めた。


「騎士隊長の貴方に合わせて距離を設定したものだから、それで……私は貴方の教官ですもの……」


 彼女の手が、悔しそうにセオドールの新しいシャツを握り締めていた。


(確かに……今回の距離は騎士でも根を上げるような距離だ。それをマリアベルは弱音も吐かずに黙々と……しかも、俺のペースに必死に付いてきていたんだな……)


 セオドールはそう思うと、マリアベルに申し訳ない事をしたという気持ち半分と……


「君、冷静で頭が良いのに、案外抜けてるんだな」


 負けず嫌いな彼女を可愛らしく思う気持ち半分で、セオドールは思わず可笑しそうに笑った。

 そして、マリアベルの腰と太ももに腕を添えるとそのまま横抱きにして持ち上げる。


「セオドール様っ⁉︎ おろ、下ろしてください!」


 ついに顔まで真っ赤にしたマリアベルが驚きの声を上げる中、セオドールはただ笑って、彼女を屋敷の中まで運んだのだった。

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