ep.11 知らない君
二人が屋敷に戻ると、使用人達はとても驚いた様子を見せていた。なぜなら、あのマリアベルお嬢様が婚約者に横抱きにされて戻ってきたからだ。
(お嬢様にも、ついに春が……⁉︎)
(あのお嬢様が素直に抱かれているなんて……!)
使用人達は様々な事を思ったが、声には出さない。しかし、その微かに騒ついた雰囲気と注目する視線で、彼らが本当は何を言いたいのか悟る事は出来る。
マリアベルは普段から使用人達に対して、アイゼンハルトらしい規律的で威厳ある主人の姿を見せていたからか、とても恥ずかしくて堪らなかった。セオドールは離してくれそうにもないし……
「セオドール様。立ち止まらず、早く私を部屋まで運んでくださいな」
そう言ってセオドールの腕の中で縮こまり、赤くなった顔を隠すように彼の胸へと顔を埋めるマリアベル。
そんな彼女を可愛く思った彼は、ドキドキと高鳴る心臓でぎこちなく頷いた。
「わ、分かった……」
「……セオドール様の心臓が忙しないですわ」
「それは……我慢してくれ……」
なぜセオドールの心臓が忙しなくなったか分かっていないマリアベルは、それ以上は何も言わずにただ黙って彼に運ばれたのだった。
マリアベルの自室は、とても簡素な雰囲気の部屋だった。華やかな壁紙でもなく、アンティークな置物が置いてあるわけでもなく、生活する上で不足ない程度の実に合理的な室内だ。
(マリアベルらしいな……)
もはや、この令嬢っ気のない室内を見て、セオドールはそんな事を思いながら微笑んでしまう始末だ。
マリアベルをベッドの上に横たわらせると、すぐに侍医がやって来て、彼女を診察した。
その様子を、セオドールは窓際に腰を下ろしながら見つめている。
「特に捻挫などの心配はありません。お嬢様、ご無理はなさらず」
「えぇ、善処するわ」
ここで素直に頷かないのがマリアベルなのだ。侍医は慣れているのか困ったように笑って、静かに待っていたセオドールへと振り返る。
「セオドール様。こちらの滋養強壮剤をお嬢様に飲ませて差し上げて下さい」
そう言って、侍医はセオドールに小瓶と飴玉を一つ渡した。
「それくらい、自分で飲めますわ」
「では、私はこれで……」
マリアベルから叱咤が飛んでくる前に、侍医は退散するように部屋から出て行った。
「…………」
部屋に残された二人は、暫く黙っていた。マリアベルは気まずそうに目を逸らしている。
「マリアベル。滋養強壮剤を飲んだ方がいい」
沈黙を破ったのはセオドールで、彼はマリアベルの元へ近付くと、隣に腰を下ろす事はせず、彼女の足元に膝を付いて侍医に渡された滋養強壮剤入りの小瓶を渡した。
マリアベルはその小瓶を一瞬恨めしそうに見つめるも、素直に受け取り、そして一気に煽る。
小瓶の蓋を開けた瞬間に漂う異臭に、セオドールまで思わず眉を顰めた。
中身を飲み干したマリアベルは無表情を保っているが、苦しそうにしている。あの滋養強壮剤の不味さは、彼女の無表情すらも打ち破りそうだ。
「マリアベル、これ……」
セオドールは滋養強壮剤と共に渡された飴玉の存在を思い出す。飴玉の外袋を破ると、指で摘み慌てて彼女の前に差し出した。
マリアベルは飴玉を見た瞬間、ぱくりとセオドールの手から直接、飴玉を口の中に含んだ。
その瞬間、セオドールは固まり、マリアベルはハッとする。
「……ご無礼を、申し訳ありませんわ……この侍医特製の滋養強壮剤は、効果は保証されているのですが……あまりにも衝撃的な味で耐え難く……」
「……いや……」
セオドールはふらりと立ち上がると、先程いた窓際へと戻る。そして、すっかり太陽も登りきり明るくなった窓の外を見つめた。
(か、彼女の唇が、俺の指に……)
しかし、セオドールの目には外の景色なんて映っちゃいない。
(柔らかかった……)
セオドールも男なんだ。どうしても意識してしまうのは、仕方がない事だろう。
飴玉のおかげで復活したのか、マリアベルはいつもの調子でセオドールを見つめていた。
(……この方、本当にお優しい方なのね……)
今朝の数時間だけでも、セオドールの誠実さと優しさはマリアベルに充分なほど伝わっていた。
(……だからこそ、セオドール様には婚約者教育が必要なんだわ)
その冷えた薔薇色の瞳の奥に、微かなやる気が灯っている。
セオドールは、その性格から万人に好かれ、きっと女性にも好かれやすい男性なのだろう。だからこそ、マリアベルはセオドールに必要な教育はアレしかないと強く思ったのだった。
◆
マリアベルの体力が回復すると、二人は朝食を取りに食堂へ向かった。この時、時刻はまだ午前九時……朝の割にセオドールは疲労感を中々に感じているが、こんな日も悪くないと思う。
昨晩の晩餐は豪勢だったので、セオドールは朝食にとても期待が膨らんでいた。何より、体が肉を求めている状態だ。しかし……
「こ、これが……俺達の朝食なのか……?」
出されたのは、野菜スープとパンと茹で卵だった。
信じられない目で前に座るマリアベルを見つめると、彼女は黙って卵の殻を剥いていた。
「そうですよ。軍隊式教育と何度申し上げれば良いのですか?」
そして、殻を剥いた茹で卵をセオドールの皿に乗せてやる。
「動物性タンパク質があるだけ、贅沢ではありませんか」
「今時の平民の朝食も、ここまで貧相ではないと思うぞ……」
プルリと転がる茹で卵を見つめながらセオドールが反論すると、マリアベルは久しぶりに『完璧令嬢』の優雅で美しい笑顔を浮かべて見せた。
「戦時中を想定しての軍隊式朝食です」
「なぜ、わざわざ戦時中を⁉︎」
セオドールは青褪めた顔を上げる。マリアベルは相変わらず優雅に笑っていた。
「その笑顔には、騙されないぞ!」
「…………」
マリアベルはスッと無表情に戻り、小さく息を吐いた。
「仕方ありませんね。パンのおかわりは認めましょう」
パン……セオドールはマリアベルの暴論に、ジト目で彼女を見つめた。
マリアベルは手を挙げて執事を呼ぶと、バスケットにパンを詰め込んで用意するよう指示を出す。
彼の目の前に、即座にパンいっぱいのバスケットが用意された。
信じられないといった顔でセオドールがマリアベルを見ると、彼女は遠慮なくどうぞ、という笑顔で微笑んでいる。
「……君の家中のパンを食べ尽くされても、文句を言うなよ」
負けじとセオドールが言うと、マリアベルは可笑しかったのかクスッと小さな声を上げて笑った。
彼女のそんな無邪気な笑顔は初めてで……普段の大人びた彼女ではなく、年相応の十八歳の笑顔のようだ。
(あの悪夢の査問会から、俺はどれだけ彼女の新しい一面を見てきただろうか……)
たった一日だけで、これまでの二人の三年間を超えたような気分だ。
セオドールが見つめていると、それに気付いたマリアベルは笑顔を引っ込めて無表情になると「なんですか?」と、冷たい顔で尋ねてくる。
「いや……君がマリアベルで良かった」
(君が色んな顔を見せてくれるから、嬉しい)
セオドールが嬉しそうに微笑む中、マリアベルは眉を顰めて不思議そうに首を傾げていたのだった。




