ep.12 愚か者と信用
朝食を終えると、セオドールには次の厳しい訓練が待っていた。
「午前中は座学、午後からは模擬演習です」
軍隊らしい単語が出てきた事で、セオドールはごくりと緊張した面持ちで唾を飲み込む。
また、体力訓練だろうか……今度は山でも登らせるつもりなのかもしれない。
(もしそうなら、今度こそマリアベルには留守番してもらおう)
自分の教育の為に彼女が倒れるなんて不本意だ。
「座学はいいとして、模擬演習とは……? 何をするつもりだ?」
セオドールが緊張しながら質問すると、マリアベルは淡々とした顔で「夫婦模擬演習ですわ」と答えた。
「え?」
「婚約者同士という事は、未来の夫婦であるという事……社交の場における連携能力の確認は必要です。その為の実施訓練ですわ」
自信に満ちた顔で答えるマリアベルには申し訳ないが、セオドールにはイマイチ理解が出来なかった。
「つまり……何をするって?」
「二人で街へ出ます」
「……それはデートでは……」
「夫婦模擬演習です」
マリアベルに笑顔で押し切られたセオドールは、分かったと頷いて同意してみせる。すると、マリアベルは満足そうだった。
「まずは午前中の座学が待っています。教鞭はもちろん私が直々に執りますよ。お覚悟はよろしくて?」
「そうだったな……」
セオドールは相槌を打ちながら座学では何を学ばせるつもりだろうかと予想した。マナー講習、エスコート講座……大穴狙いで会話訓練、などだろうか?
「セオドール様はどうやら、お人が良すぎると申しますか……貴方は優しすぎる面があるようです。それは貴方の良さでもあるのですが、婚約者としては完全に裏目に出ていますわね……」
マリアベルの言葉に、セオドールは何も言い返せない。実際に彼はアメリアを拒めず、流されるままにいたからこんな事になっているわけで……
「ですので、万人に愛され、女性を拒めないお優しい貴方には誘惑耐性訓練を……」
彼女の薔薇色の瞳が鋭く光り、セオドールは少し怯えた表情を浮かべた。
「つまり、ハニートラップ講座を実施いたします」
「は、ハニートラップ……?」
ぽかんと呆けるセオドールを一瞥し、マリアベルは説明する。
「世の中には、涙一つで殿方を操る恐ろしい女性もおりますのよ」
そう、セオドールはそういった手前の女性にめっぽう弱く、すぐに騙されるだろう。涙や笑顔を武器にする女性はアメリアだけではないのだ。世の中にはもっと強者達がいる。
(今後、第二、第三のアメリア・サロペが現れてもおかしくはないわ……)
正直、マリアベルは本気で危機感を覚えていた。
「彼女達の手管を学び、貴方自身も隙を見せない振る舞いを身に付けましょう」
マリアベルは冷たい表情でそう締め括る。セオドールもまた、笑い事ではないと真剣な顔で頷いた。
「ハニートラップというが……まさか、君が俺を誘惑してみせるのか?」
セオドールは平静を装いながら尋ねたが、実際、心の中では期待していた。あのマリアベルの誘惑がどんなものか知りたい気持ちでいっぱいだった。
「いいえ、誘惑役は私ではありません」
その瞬間、セオドールは一気に肩を落とした。
「どうぞ、お入りになって」
マリアベルの合図で部屋の扉が開く。まさか、本当にハニートラップ講習の講師を呼んでいたのかと思い、セオドールは驚いた顔で扉の向こうに立つ人物に目を向けた。
そして、彼は更に驚く事となる。
「こ、侯爵夫人⁉︎」
なんと、部屋に入ってきたのはジークフリドの妻でありマリアベルの母、フレデリカ・アイゼンハルト侯爵夫人だったからだ。
「昨晩は疲れていたみたいだし挨拶出来ていなかったけれど……こうして顔を合わせられて良かったわ」
「こちらこそ……ご挨拶に伺わず申し訳ありません」
穏やかに微笑むフレデリカに、セオドールは慌てて立ち上がると頭を下げて挨拶した。
フレデリカはニコニコと笑いながら、セオドールの隣に用意されていた椅子へと腰を下ろす。
「さて、講師が揃いましたね。ハニートラップ講座を始めましょう」
マリアベルの言葉に、セオドールは青褪めた顔でフレデリカに目を向けた。
「……もしや、本当に夫人が引き受けられたので……?」
「貴方達、楽しそうな事をしてるなと思って……私も仲間に入れてもらったわ」
セオドールはすぐにマリアベルへ顔を向けて、君の母親を止めてくれ。と、必死に目で合図を送る。さすがに役とはいえ、未来の義母に誘惑されるなんて笑えない。
マリアベルはセオドールの気持ちに気付いているのか、いないのか……淡々とフレデリカを講師に選んだ理由を話した。
「私の両親は政略結婚であり、かつてお父様はお母様に見向きもしなかったそうです。しかし、結果的にあの厳しく硬派なお父様をその手腕で陥落させ、今では誰よりも大切にされています……お母様の実力は本物ですよ」
マリアベルはそう言って、恐ろしいものでも見るような緊張した目付きでフレデリカを見ていた。
「安心してちょうだい。さすがに未来の息子に誘惑なんてしないわ。私の知る知識を教えるだけよ」
フレデリカがにっこりと笑いながら言ったので、セオドールは安心して息を吐いた。
「でも……しっかりと学んでちょうだいね?」
柔らかかったフレデリカの雰囲気が急変する。
「私の授業を受けておいて、またつまらない女に引っ掛かりでもしたら……その時は本当に許さないからね?」
ゾッとするほどの鋭い視線に、セオドールは思わず背をのけ反らせた。
「し……しっかり学ばせていただきます!」
セオドールが冷や汗を掻きながらハキハキと答えると、フレデリカはまたニコニコとした柔らかな雰囲気に戻って「頑張りましょうね~」と呑気な声で笑ったのだった。
「——では、復習よ。もし、泣いている女性がいたら?」
「はい。状況で判断せず、まずは何があったかを事実確認し、一方の言葉だけを鵜呑みにしません!」
セオドールの回答に満足したフレデリカは頷きながら「百点満点よ」と、ウインクしてみせた。
「理由も聞かずに決め付けて味方になる男性は、最も騙されやすいのだから……セオドールさんもそんな男性にならないよう気を付けてね」
「はい! 肝に銘じます」
「女の涙は?」
「まず疑え!」
「よろしい」
こうして、婚約者と義母に教わるハニートラップ講座という精神的にとても辛い座学は無事に終了したのだった。
フレデリカが部屋を出て行った後……セオドールはマリアベルに言った。
「……君を傷付けて、ごめん……」
この授業を通して、セオドールは自分が婚約者としていかに無神経だったかを痛感した。
そして、ずっと言えていなかった言葉を、彼はやっとマリアベルに伝えられた。彼女はセオドールと真っ直ぐに目を合わせて、そして答える。
「……間違いは誰だって起こり得ます。中には取り返しのつかない間違いもありますが……」
そこで言葉を切って、マリアベルは目を伏せる。彼女は今セオドールに謝られて初めて、自分は傷付いていたのだと知った。
(あの日は確かに腹が立っていたけれど……そうか、あれは傷付いていたからだったのね)
セオドールと過ごしていると、マリアベルにとって知らなかった事への気付きがいっぱいだ。
「……でも、貴方が今反省なさっているのならば、今後の教育成果で見せてください」
マリアベルは再び顔を上げて、言葉を続けた。
「セオドール様が同じ間違いを繰り返すような愚か者ではない事を、祈るばかりです」
決して許すとは言わない彼女の冷たい言葉を、セオドールはしっかり胸に刻んで頷いた。
「あぁ……俺は愚か者ではないから、そこだけは信じてくれ」
少し悲しい気持ちを滲ませて、セオドールは笑顔を浮かべた。マリアベルは何も言わなかったが、彼の笑顔を見て調子が狂った様子で目を逸らしていた。
そんな二人が過ごす午前中は、無事に終わったのだった。




