ep.13 二人の距離感
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「よし、行こうか。夫婦模擬演習へ!」
「午前中よりも元気になられましたね、セオドール様」
貴族にしては質素な服装に身を包んだ二人は、アイゼンハルト領の街中に降り立っていた。
護衛兵士は付けていない。マリアベルにはジークフリド直伝の護身術の心得があるし、セオドールは騎士隊長の実力者だ。彼の腰には剣がぶら下がっている。
「マリアベル。貴族と知られないように動きたいんだろう? だったら『セオドール様』なんて呼んでは駄目だ」
「…………」
マリアベルは冷たい目でセオドールを見つめていた。
(……今、呼び方を考えてるな……)
これまでのセオドールなら、マリアベルのこの無感情に見える表情を見ると、彼女が何を考えてるのか分からず不安を募らせていたのだが、今は何となく察する事ができるようになっていた。
マリアベルは無表情に見えて、彼女の瞳は様々な事を語ると気付いたらからだ。
「……では……」
彼女の形の良い唇が動く。
「……セオ」
薔薇色の瞳に見つめられ、セオドールはドキリとした。
「セオはどうですか?」
まさかいきなり愛称で呼ばれるとは思っておらず、彼の心は少し動揺したが、同時に喜んでもいた。
「あ、あぁ……うん。それでいい……」
「それで? 私の事は何と呼びますの?」
淡々と尋ねるマリアベルだったが、なぜかその答えを待っている気がした。セオドールは少し頬を赤くさせて呟くように言う。
「マリー」
「……何だか、幼子を呼ぶ時のようですわ」
「文句言うなよ」
マリアベルが少し不機嫌そうに眉を顰めたので、セオドールは彼女の顔色を窺うように尋ねた。
「……嫌だった?」
少し悲しそうにこちらの顔を覗いてくる婚約者に、マリアベルは目を逸らしながら答える。
「別に、本日限りですから……愛称くらいなんでもいいです」
彼女の耳先は赤くなっていた。
セオドールは気付かない振りをしてやって、そっと彼女に手を差し出した。
「? エスコートの時とは、手の向きが違うようですけれど……」
「そうじゃない。手を繋ごうと言ったんだ」
すると、マリアベルが固まる。
「『夫婦』模擬演習だろ?」
セオドールが明るく言うと、マリアベルは意を決したように彼の手を握った。
「えぇ。夫婦として完璧にこの演習を成功させましょう」
どこか力の入り過ぎた握り方に、セオドールは思わず笑ってしまった。
「マリー、あの店に入ってみないか?」
「どこです?」
アイゼンハルト領の街並みを散策しながら、セオドールは目に付いた色んな店に入ってみた。
初めて訪れた地に、物珍しさと新鮮さを感じていたのもあるが、彼の少し風変わりな婚約者と感覚を共有したいと思ったからだ。
マリアベルは嫌な顔をひとつもせずにセオドールに付き合ってくれて、最初こそ彼が話しかけて彼女が頷くだけだったけれど、次第に二人はポツポツと『会話』が続くようになった。
「新婚さん? 綺麗な奥さんで、旦那さん羨ましいね!」
屋台の前を通りかかった時、そこの女亭主に笑顔で揶揄われた。セオドールは照れた様子で笑顔を見せて、マリアベルを振り返る。
「……俺達、新婚だって」
「婚約者なのですから、いずれはそうなります」
相変わらずの、彼女の連れない態度にセオドールは呆れたように笑った。
「そういえば、この後の婚約者教育はどんなものがあるんだ?」
「今後は婚約者としての自覚教育が主ですね。マナー、ダンスレッスン、他にも女性との距離感を学ぶ会話訓練、そして、既婚未婚、年上年下といったお相手の状況に合わせた心理解説授業を行います」
「……この一週間でかなり詰め込まれているんだな?」
淡々とした彼女の横顔を見つめて苦笑いを浮かべると、マリアベルの冷えた瞳がこちらを向いて、じっと見つめてきた。
「当たり前です。貴方が誤解を招くような真似をしなければ、こんな事にはなりませんでしたわ」
「……はい……」
彼女の言葉はまるでセオドールを突き放すようで冷たかった。でも、二人の繋いだ手は離れていなかった。
「確かに俺が失敗した事実は消えない……でも、その後で君と向き合えた事だけは良かったと思う」
「…………」
セオドールが安堵したような笑顔を浮かべながら言うと、マリアベルは無表情のまま彼を見上げていた。
「……もちろん、俺のこれまでの振る舞いには心から反省している!」
慌てて反省を口にするセオドールに、マリアベルの表情は相変わらず感情が読めない。しかし、僅かに口角が上がったのを、彼は見た。
セオドールは少し目を伏せて、自分の心が温まっていくのを感じていた。
(これまで俺が気付いていなかっただけで、分かりにくいけれど……マリアベルは、本当は優しい女性なんだな……)
マリアベル・アイゼンハルトは無関心で、無感情で、まるで氷の薔薇のように美しくも冷たい女性……婚約して三年間、セオドールは婚約者の事をずっとそう思っていた。
『私がいつ婚約破棄をすると言いましたか?』
でも、違った。あの時、彼女はセオドールを見捨てる事だって出来たのに、彼と向き合う事を選んでくれたのだ。
(俺は、そんな君に何を返せるだろう?)
——いや、セオドールはもう分かっている。それは……
「……マリー」
セオドールが足を止めて彼女を呼ぶと、マリアベルもまた足を止めて振り返った。
「どうしました? セオ」
小首を傾げながら尋ねてくる婚約者を真っ直ぐに見つめて、セオドールは彼女から手を離す。そして、その場に片膝を付いた。
道端で突然片膝を付き、脇に差していた剣を抜いて地面に突き刺す男がいるので、周りの通行人達は驚いた様子で注目している。
セオドールは伝統的な騎士の誓いの作法に則って、目の前に立つマリアベルへ心からの誓いを立てた。
「貴女の騎士セオドール・ベルグラードが誓います。俺はもう二度と、貴女の心を裏切りません」
セオドールがマリアベルを見上げると、彼女は少し呆然としたような、目を丸くしてこちらを見つめていた。
「この身の生涯をかけて、貴女に俺の誠実と信頼を捧げます」
そう、それこそがマリアベルにセオドールが返していくべきものなのだから。
「……わ……分かりましたから、立ってください」
マリアベルはハッとすると、セオドールを立たせようと手を伸ばす。すると、彼はその手を丁寧な手付きで取って、そっと甲に口付けした。
「もう、俺は間違えないよ。マリー」
同じ過ちは、二度としない。
伏せていた目を上げてセオドールが彼女を見ると、彼女の耳が真っ赤になっていた。
「ママー、あそこにお姫様がいるー」
たまたま通りかかった小さな女の子が、セオドールに膝を付かれ手にキスをされているマリアベルを指差しながら母親の手を引っ張っていた。
すっかり注目を浴びて恥ずかしくなったマリアベルは、慌てた様子でセオドールを立ち上がらせると、彼の手を掴んでそそくさとその場から離れた。
「マリー」
「…………」
セオドールが呼んでもマリアベルは振り返らない。手を繋いだまま、どんどんと前へ進んでいく。
「マリー……マリアベル」
やっとマリアベルが振り返った。その表情は、不機嫌そうに眉が顰められていた。
「どうか、これからの俺を見ていて欲しい」
「……貴方といると、どうも調子が狂います」
そう言って、彼女はセオドールから目を逸らす。
(目を逸らして欲しくないな……)
セオドールは本能的にそう思い、彼は彼女の気を引く話題を探して、改めて話しかけた。
「……実は、君が昨日言っていた馬産地も見てみたい」
マリアベルはぱっと顔を上げて、再びセオドールを見つめる。
「セオも軍馬に興味が? ぜひ案内して差し上げましょう」
彼女の瞳に自分の姿が映っている。その事がとても嬉しくて、セオドールは繋いでいた手をしっかりと握り直し、一歩前に出て彼女へと近付いた。
少しでも長くその瞳に映っていたい。セオドールは更に質問を重ねた。
「君は何色が好きなんだ?」
「私は……特に好みはなく…………セオは?」
「そう聞かれると、特段俺もないな……いや、これからは薔薇のような赤が好きになるかもしれない」
「……そうですか」
「照れてる?」
「どうして貴方の色の好みで私が照れるのですか」
「ははっ、マリー。君って奴は……——」
——セオドールにとっては、あまりにも短いと感じてしまう婚約者との『厳しい』軍隊式教育の日々が過ぎていく……




