ep.24 婚約者襲来
セオドールは王宮にある兵舎の執務室で、心ここに在らずな様子で窓の外を眺めていた。
「セオドール隊長、こちらの書類にサインを……」
副隊長アンリ・レナードが話し掛けても、彼は無反応だ。
セオドールの頭には、一昨日の出来事でいっぱいになっていた。
一昨日……そう、セオドールが一人で空回りし暴走してしまい、マリアベルにキスをしてしまった事件が起きたあの日だ。
「セオドール隊長……隊長! 聞こえていますか?」
セオドールは大きなため息を吐きながら、俯いた。
あの後、マリアベルは力の限りセオドールを突き飛ばすと、まるで逃げていくように馬車から飛び出して、侯爵邸の中へと消えていってしまった。
挨拶もせずに立ち去るなんて、いつも規律と礼儀に重きを置いている彼女にしてはあり得ない行動だ。
ふと、彼女の真っ赤になった、狼狽えた表情を思い出す。
セオドールは自身の唇の……あの日、マリアベルに噛まれてしまい、すっかり瘡蓋になった小さな傷痕に指先で触れた。顔にはみるみるうちに熱がこもり、伏せた瞳の奥には微かな期待が宿っていた。
(彼女のあの反応……どういう意味なのだろう……)
彼の知るマリアベルという女性の人物像は、セオドールに対していつも平然としていて、冷静で、手を繋いだりデートの誘いも全て『婚約者教育』に変換してしまう、規律的な変わり者だ。
だから、あのキスも絶対にマリアベルの逆鱗に触れて彼女の信頼を失うであろう悪手だったとセオドールは思っていた。けれど、実際に見せた姿は、赤面する普通の女の子のような反応のマリアベルの姿。
(これは、期待……してもいいのか……?)
そう期待する反面、直接確認するのが怖くて、セオドールは昨日に予定していたマリアベルの『婚約者教育』をすっぽかしてしまっていた。
だから彼は、罪悪感から余計にマリアベルに会いに行けず、ここでこうして悶々と一人で悩み続けている。
「セオドール隊長っ! しっかりしてください!」
無視し続けられたアンリが、ついに大きな声で叫んだ。
「——セオドール様。貴方は部下にまでご迷惑をお掛けしているのですか?」
突然聞こえてきた女性の声に、セオドールはハッとして振り返る。するとそこには、アンリと……その後ろに冷たい目をした無表情のマリアベルが立っていた。
「マ、マリアベル……?」
「アイゼンハルト嬢? いつから、こちらに……」
驚きで目を丸めるアンリ、青褪めて言葉を失うセオドールを順に見つめて、マリアベルは言った。
「昨日、私の授業をすっぽかした婚約者様を、お迎えに上がりました」
薔薇色の瞳が非難の色を込めてセオドールを見つめてくるので、彼は思わず目を逸らして言い訳した。
「昨日は、その……仕事が溜まっていてな。今日もまだ仕事が終わりそうにないから、婚約者教育は難しそうだ……」
そう言いながら、セオドールはアンリの手の中にあった書類を奪い取ると、慌てて仕事をする振りを見せた。
「…………」
本日の婚約者教育も断られたマリアベルは、少しの間黙っていた。アンリは何となく二人の事情を察して、小さく息を吐く。
「……構いませんわ」
長い沈黙の後、マリアベルはそう言ってソファーに腰を下ろす。
「終わるまでここで待ちます。貴方は心ゆくまで、お仕事をなさって」
予想外のマリアベルの回答に、セオドールは驚きで目を丸くした。
「さぁ、どうぞお仕事の続きを」
絶対に帰らないという強い意思を見せてくるマリアベルに、セオドールはもう何も言い訳が出来なかった。降参する気持ちで、彼は小さく頷く。
そして、マリアベルに監視されながら、セオドールの地獄のような書類仕事が始まったのである。
始めこそ、薔薇色の視線を感じて落ち着かないセオドールだったが、彼には本当に処理しないといけない書類仕事が大量にあったので、気付けば集中し没頭してしまっていた。
一段落し、ふとセオドールが顔を上げると、マリアベルは優雅に紅茶を啜っていた。テーブルには焼き菓子やケーキなども用意されており、マリアベルが退屈していないようで彼も安堵する。
(……ん? 焼き菓子? ケーキ……?)
セオドールは違和感を感じた。ここは王国騎士団の兵舎だ。剣や防具の備えはあれど、焼き菓子やケーキを備えている筈もない。
(あの菓子たちはどこから出てきたんだ……?)
常備されているなら、セオドールが把握していない筈がない……いや、だからそもそも騎士の兵舎に、そんな令嬢をもてなす物などはなから置いていない。
その時、セオドールの疑問に答えるかのように、彼の部下である数人の騎士が執務室に入ってきた。彼らは隊長であるセオドールに用があるのかと思えば、手にティーポットを持ってマリアベルの元へと向かっていく……
「アイゼンハルト嬢、お代わりはいかがですか?」
「まだ結構ですわ。お気遣い、ありがとうございます」
セオドールは目を疑った。
「こちら、今王都で流行りのゼリーを買って参りました。アイゼンハルト嬢もいかがですか……?」
「先程頂いたケーキもまだ手を付けられていないのですが……いえ、ご好意を無下には出来ませんものね。いただきますわ」
皿に乗ったゼリーを手に持つ騎士が、嬉しそうに破顔しながらその皿をテーブルの上に乗せる。
「……お前達、何をしているんだ?」
なぜ、セオドールの部下達が全力でマリアベルをもてなしているのだろうか?
「……あら、お仕事はもう終わりましたの?」
マリアベルがセオドールに気付き、こちらを向いた。騎士達は照れくさそうな笑みを浮かべている。
「実は……本日、アイゼンハルト嬢から備品の寄贈がありまして、大量の木刀と鍔を頂きました。その感謝を示したく……せめて、お待ちの間だけでも不都合ないようにお仕えしようと……」
部下の言葉を聞き、セオドールは目を開いてマリアベルを見た。
「食べ物を差し入れてくださるご令嬢が多い中、アイゼンハルト嬢の差し入れは騎士団としては非常に有用で有難く……」
「隊長! アイゼンハルト嬢がくださった鍔がもの凄くいいんですよ! 絶妙な重さで剣を持った時に重心が取りやすいんです!」
部下達の熱い言葉を聞きながら、マリアベルは静かに紅茶を啜ると、優雅な笑みを浮かべながら言った。
「私はセオドール様の婚約者ですもの。婚約者たるもの、お相手の同僚の方々が困っている姿は見過ごせませんわ」
確かに最近、備品が古くなりセオドールが備品購入の申請を上部に上げたばかりだが……
(なぜ彼女が知っているんだ?)
無言のまま驚いているセオドールを、マリアベルは目を細めて微笑みながら、何でも見透かしてしまいそうな薔薇色の瞳で見つめていた。
彼女のその得意げにも見える笑顔を見て、セオドールは思わず笑ってしまった。
キスの後から色々と悩んだセオドールだったけれど、マリアベルがいつものマリアベルらしい姿を見せてくれると、何だか心が軽くなる。
マリアベルとルシアンに嫉妬する気持ちはあるけれど、悩みだってまだ何も解決していないけれど……
(君が君らしくいてくれるなら、俺も俺らしくいればいいか)
そう答えを出す事が出来た。
「マリー、ありがとうな!」
だからセオドールは愛おしい婚約者に向ける甘い笑顔で笑いかける。するとマリアベルは少し目を開いた後……
「……別に、お礼を言われる程の事でもありません」
そう言って、ムスッとした表情で素っ気なく答える。しかし、彼女の耳先と頬がほんのり赤らんでいたのを、近くにいた騎士達は見てしまった。
(令嬢、照れてるよな……?)
(うん、照れてるな。確実に)
そんな中、マリアベルは動揺していた。
(顔が熱い……どうしてこんなに落ち着かないの……!)
マリアベルは咄嗟に不機嫌そうな表情を浮かべて誤魔化そうとしたが……セオドールに笑いかけられるだけで顔が熱くなるなんて、彼女は自身の変化に内心で戸惑っていたのだった。




