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ep.23 言葉と熱

 キッ……馬車の動きが止まる。


「……到着しましたね」


 マリアベルの言葉に、セオドールも顔を上げて車窓に目を向ける。


 そこにはアイゼンハルト侯爵邸が映っていた。マリアベルは軽く身嗜みを整えると、セオドールに別れの挨拶を切り出す前に、言い聞かせるように言った。


「火傷は幸いそこまで酷くはありませんでしたけれど、軽く見ずにしっかり冷やして……十分に療養くださいね」


 淡々とした口調で気遣うマリアベルを見つめながら、セオドールは思った。


(彼女は今、こんなにも俺を気遣ってくれているじゃないか……)


 少し前だったなら、きっとマリアベルもここまでセオドールに心を砕いていなかっただろう。

 あの冷え切っていた三年間と比べれば、とても大きな進歩だし、今の二人ならこのまま結婚しても、政略だけではない、ちゃんとした『家庭』も築けそうだ。


 セオドールだって、マリアベルと婚約した当初、彼女に求めるものはそれだけだったじゃないか。


(それなのに、どうして俺の心は満足していないんだ)


 そんな事、分かりきっている。マリアベルの心には、恋人では越えられない大きな壁があるから。今のセオドールには知り得る事のない、マリアベルとルシアンの過去と絆があるから……


(……悔しい……)


 相手は、マリアベルの元恋人でも想いを寄せる人でもない。むしろ、そうであってくれたなら、幾分かは心も楽だったのかもしれない……セオドールにも戦える術があったのかもしれないのに。


 マリアベルを見ると、彼女の薔薇色の瞳は相変わらず感情が滲んでいない透き通った色をしていた。


 セオドールは、自分の中に明確な嫉妬心を感じる。ルシアンに、ではない。過去のマリアベルとルシアンが共有してきた時間に嫉妬している。


 馬車を降りる為、腰を上げようとするマリアベルの姿を見て、彼は慌てて彼女の手を掴んだ。


「待ってくれ……!」

「どうされました?」


 急に手を掴まれて少し驚いた様子を見せたマリアベルだったが、彼女の表情はすぐに無表情に戻る。


(俺は、彼女に何を求めているんだろう……)


 婚約してからは、ずっと彼女の関心を求めていた。査問会の日からは、『完璧令嬢』じゃない彼女の素顔を求めていた。恋心を自覚した今、セオドールはマリアベルの心も欲しいと思ってしまっている……


「……その、あまり……ルシアン殿下と二人で会わないで欲しいんだ」


 違う。本当は、こんな嫉妬心に塗れた言葉を言いたいわけではないのに、言葉が上手く出てこない。


「毎回、貴方を連れて行けと?」

「そうじゃなくて……」


 歯切れの悪いセオドールの様子をしばらく黙って見ていたマリアベルだったが、彼女は不愉快そうに眉を顰めて、自分の手を掴むセオドールの手を軽く振り払いながら言った。


「まさか、私とルシアン殿下の不貞を疑っているのですか?」


 セオドールは、思ってもみなかった事を指摘され、驚いて息を呑む。


「私は誰かさんと違いますわ。私も殿下も、男女の適切な距離を心得ています」


 マリアベルにセオドールの過去の失敗を掘り起こされて、彼の心に痛みが走った。

 

 すっかり腹を立てた様子のマリアベルは、冷え切った瞳を細めてセオドールを真っ直ぐに見つめている。


 その視線を受けながら、セオドールは頭の中で、彼女に何と伝えればいいのか必死に考えていた。


 セオドールは過去に勝てない。ルシアンに勝てない。でも、せめてこれからの未来では、彼は勝ちたいと思っているだけなんだ。


 これを言葉にして伝えればいいだけなのに、いざ口を開くと言葉に詰まる。


「……とにかく、屋敷に戻ります」


 結局は何も答えられないセオドールに、マリアベルは小さく息を吐いてから言った。


 彼女は今度こそ腰を上げて、馬車の扉に手を掛ける。するとセオドールが後ろから覆い被さるように扉を手で押さえたので、マリアベルが眉を顰めて振り返った。


「さっきから、一体何ですか?」


 いつもより、二人の間の距離が近い。セオドールが少し腕に力を入れれば、彼女を腕の中に閉じ込めてしまえるだろう。


 苛立たしそうにする彼女を眼前で見つめながら、セオドールは……纏まらない思考なんてかなぐり捨てて、彼の心を埋め尽くす感情を呟いた。


「……悔しい……」

「え?」


 悔しい。やっと彼女と向き合えたと思っていたのに、彼女の中にセオドールの立ち入れない領域がある事が悔しい。そしてそこには既に、ルシアンがいるという事が……とても悔しい。


(君にとって、やはり俺はただの『婚約者』なのか?)


 セオドールが苦しそうに顔を歪める。そんな彼の表情を見て、マリアベルは……


 その瞬間、彼女の鼻先に彼の香水の匂いが広がったかと思えば、視界がセオドールに埋め尽くされた。


 マリアベルが気付いた時には、セオドールの顔が目と鼻の先にあって、彼はそのまま彼女の唇に自分のものを重ねる。


 彼女の澄んだ匂いと柔らかな感触にセオドールは夢中になって、離れなければならないと分かっているのに、体が言うことを聞かなかった。


 彼女の熱が、セオドールに伝わってくる。


 マリアベルが必死にセオドールの胸を押し除けるように叩くが、彼はびくともしない——


「っ——!」


 しかし、セオドールの唇に激しい痛みが走り、彼はハッと我に返ってマリアベルから顔を離す。


 マリアベルに噛まれたのだ。セオドールの唇は切れて、血が滲んでいた。


「…………離してください」


 彼女の声は冷え切っていた。セオドールは自身の衝動的な行動に頭が真っ白になる。


(……終わった……)


 不器用で愚かな自分を殴りたくなった。


(今度こそ、俺はマリアベルに婚約破棄される……)


 相手の合意もなく触れるなんて、紳士のする事ではない。そして、規律に重きを置くマリアベルが、それを許す筈もない。


 セオドールの目の奥がツンと熱くなった。自暴自棄に笑いそうになる。


「マリアベル……マリー……」


 すまない。せめてしっかりと謝罪しようと思い、彼が顔を上げると……


「っ……」


 そこには、『完璧令嬢』でも『軍人娘』でもない……顔を真っ赤にして狼狽えるマリアベルがいた。


 セオドールは息を呑みながら、目を大きく開く。


 二人は固まるよう見つめ合い、互いに目を逸らす事が出来なかった。

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