ep.20 彼と心の変化
ヴァロア王国には、誰もが口を揃えて『理想だ』と語る婚約した二人がいる——。
「——この間の夜会で、ベルグラード小公爵とアイゼンハルト侯爵令嬢がお揃いの宝石を身に付けて参加したらしいわよ」
王城の庭園にて。ルシアンが通りがかる時、ふとそんな会話が聞こえてきたので、彼は思わず足を止めた。
「まぁ、素敵! 本当に理想的なお二人だわ」
「あのお二人、家格の釣り合いも勿論だけれど、見た目も華やかでお似合いよね」
「一時期はベルグラード小公爵の心変わり、なんて噂もあったけれど……所詮噂ね」
「二人の仲睦まじい姿を見たら、今後あのような下品な噂を口にするなんて憚れるわ」
令嬢達のお喋りは止まらず、ルシアンは少しの間、マリアベルとセオドールについての噂を幾つか聞いていた。
最近、二人は街中で一緒にいるところをよく見かけるという事。元々公式の場でしか姿を見せなかったアイゼンハルト侯爵令嬢がベルグラード小公爵のエスコートを受けて度々夜会に参加しているという事……
令嬢達の楽しげな声を聞きながら、ルシアンは静かに目を伏せる。
彼の感情を読み取らせない表情からは何も分からなかったが、しかし、ルシアンは思わず半歩下がった。その時、土を踏み締めていた足から音が漏れて、令嬢達はルシアンの微かな気配に気付いたようだった。
ルシアンは穏やかな表情を浮かべると、引くのではなく敢えて堂々と姿を現した。
「まぁ! ルシアン王太子殿下。ごきげんよう!」
「おや、ごきげんよう。本日も良い天気だね」
彼は何事もなかったかのような顔をして、頬を上気させる令嬢達に挨拶すると、その場から立ち去ったのだった。
「……ルシアン殿下は相変わらずの美貌で素敵ね」
「えぇ、本当に。おまけに優秀なお方で……どうして婚約者を持たれないのかしら?」
「ルシアン殿下程のお方になると、中々釣り合いの取れるご令嬢がいらっしゃらないのかもしれませんね」
「はっきり言って、この王国でルシアン殿下のお相手に相応しいお方って……」
「……えぇ。不敬になりますから、お口には出せませんけれど、もうご婚約していらっしゃいますからねぇ……」
彼女達の無邪気な会話が聞こえなくなるまで歩き、ルシアンは足を止める。太陽の光が建物で遮られ、彼の目元に日陰が重なった。
(……理想的な二人、ね……)
彼の表情は相変わらず柔らかくて優しい笑みが浮かんでいたけれど、その青い瞳の奥には確かな暗闇が広がっている。
ルシアンにとって、セオドール・ベルグラードは特別な人物ではなかった。たまたま、マリアベルの婚約者の座に就いた、特に意味のない記号的な人物。
自分と彼女の世界に入って来れる人物などいる筈がない……そう、彼は当たり前に信じていたから。同時に、その考えがルシアンという人間を形成し、支え続けていたからだ。
しかし、その揺るぎなかった信頼は今、ルシアンの根底を揺さぶっている。
「……確かめないとな」
ルシアンはポツリと呟いた。その表情は、日陰のせいでよく見えなかった。
◆
マリアベルと共に王宮に呼ばれたセオドールは、彼女をエスコートしながら城の中の庭園を歩いていた。
「おや。ベルグラード小公爵ではないか」
「ミリアム伯爵。ご無沙汰しております」
庭園で彼らとすれ違う貴族達が、好意的な笑顔を浮かべて挨拶をしてくる。
(……これで五人目ね)
マリアベルは、楽しそうに会話を繰り広げる二人を横目にそんな事を思った。
彼女はルシアンとの付き合いもあり、王城を出入りする機会がよくある。しかし、彼女に話しかけてくるのは、同じ王太子派閥の貴族であり、同じ年頃の者達というよりは親世代の年頃の者達ばかりだ。
しかし、セオドールと並んで歩くだけで、マリアベルは度々足を止められた。それも、相手は親世代ばかりではなく、同じ年頃の者であったり、少し年上の者だったり、年下だったり……マリアベルは、セオドールの社交性の高さに静かに感心していた。
彼と話すと、相手は必ず明るく親しみのこもった表情になっていく。
マリアベルがセオドール以外に知る身近な異性はルシアンだ。彼はその優秀さで周りから尊敬を集めている……
彼女は隣に立つ婚約者を見上げた。すると、セオドールはミリアム伯爵から顔を逸らして真っ直ぐにマリアベルを見つめる。
「どうした?」
目を細めて笑うその表情は、先ほどまで伯爵へ向けていた社交用の笑顔とはどこか違って見えた。
まるで、彼女がどれだけ大切な婚約者かを示すような温かな眼差しで笑顔を向けてくるセオドール。
マリアベルは咄嗟に伏せるようにして目を逸らすと「いえ」と、短く返事した。
その様子が、ミリアム伯爵の目には婚約者から見つめられて恥じらっている令嬢のように映り、微笑ましそうに笑みを深めた。
「おや、仲睦まじいですな。若いお二人の時間をこれ以上邪魔するのは、良心が痛みます。それでは」
「えぇ、ミリアム伯爵。お時間をありがとうございました」
セオドールの挨拶に続いて、マリアベルも丁寧に挨拶するとミリアム伯爵は穏やかな笑みを浮かべたまま去っていった。
(……ミリアム伯爵の私を見るあの目……何だか最後まで、彼に微笑ましそうに見られていたのは気のせい……?)
マリアベルはこれまで他人に向けられた事のない種類の視線を向けられて、内心戸惑っていた。なぜだか、胸の奥がムズムズする……
「先程からすまないな……退屈だったか?」
マリアベルが神妙な表情でミリアム伯爵の後ろ姿を見送っていたからか、セオドールは少し困った表情で尋ねてきた。
「いえ……貴方は友人が多いのだと、感心しておりました」
「皆が良い方達なんだ。それだけだよ」
彼女の言葉にセオドールは笑って、何でもないように答える。
(でも、それは……)
マリアベルはずっとルシアンの側にいたから知っている。貴族は、欺瞞に満ちた世界で生きるからこそ、狡く強かでいないと生き残れない事を。
(貴方だから、皆が『良い方』になっているのかも……)
彼女は、ルシアンにも自分にもないものを持つセオドールを、心から眩しく感じた。
「貴方は人に好かれる才能をお持ちなのですね」
だから素直に彼の人に好かれる才能を褒めると、セオドールは驚いたように目を開き、そして頬を赤く染め、とても嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「マリーに褒められるとは……俺もまだまだ捨てたもんじゃないな」
そう言って、セオドールは彼の腕に添えるマリアベルの手を上からそっと握り締めていた。
セオドールの手の温もりが、マリアベルにも伝わる。
(……まただわ)
先程、彼に笑顔を向けられた時にも感じたけれど……最近、セオドールがふと見せる仕草に、マリアベルの心が微かにざわつく瞬間がある。
自分の手の上に優しく置かれたセオドールの大きな手を見つめ、再び彼を見上げた。
太陽に照らされた黒髪は健康的な艶を放ち、青い瞳は透き通るように綺麗で……真っ直ぐとマリアベルを見つめ返してくる。
マリアベルは、セオドールがどこか変わってしまったと感じていたのだった。




