ep.19 不変と変化
マリアベルは無表情で乱れた身だしなみを軽く整えながら「今後は時と場所、状況に応じた振る舞いを心掛けてください」と、冷たい叱責を飛ばしてくる。けれど、彼女の耳先はほんのりと赤かった。
「アイゼンハルト嬢!」
そこに、さっきまで落ち込んでいたカリストが大きな声でマリアベルを呼ぶ。
「次のレース、何番の馬ですか⁉︎」
欲に目が眩んだカリストが、これまた欲に塗れた笑顔を浮かべてマリアベルに尋ねる。そして、上気した顔で彼は興奮したように続けた。
「アイゼンハルト嬢がいれば、俺……一生働かずに豪遊できるぞ!」
すると、彼女は心底軽蔑した様子の表情を浮かべて彼を見つめた。
「今、明らかに俺を軽蔑してますね?」
「なぜか馬を侮辱された気分になりましたわ」
冷たく突き放されて涙目になるカリストの横で、ヴィクトールも笑いながら会話に加わる。
「アイゼンハルト嬢は、馬がお好きなんですか?」
カリストとは違い節度のある態度で接してくるヴィクトールに、マリアベルは目を向けた。
「好きです」
「えっ……!」
見惚れる程に綺麗な薔薇色の瞳にじっと見つめられ……その瞬間、ヴィクトールの胸は高鳴り、彼の頬が赤く染まっていく。
「……馬が、だからな?」
セオドールが彼の肩に手を置きながら黒い表情を浮かべて、マリアベルの言葉を言い直していた。
「分かってる。ただ……禁断の扉が開きそうになっただけだ」
「その扉を開いてみろ。すぐさま決闘を申し込むぞ」
「俺、勝ち目ないだろ……それ……」
「あぁ……俺の馬券が……」
騒がしい紳士達にマリアベルは少しうんざりした様子で息を吐き、彼女の中で彼らを放置する事に決定した。
そしてマリアベルは、愛用のオペラグラスを持ち上げると、その後は個人的に心ゆくまで馬鑑賞を楽しんだのだった。
マリアベルとセオドールが、カリストとヴィクトールに別れを告げて競馬場を後にする時、もう日は傾き空が赤らみ始める頃だった。
馬車までの道のりをマリアベルと並んで歩きながら、セオドールは何度も手を出したりしては引っ込めたりしていた。
「なんですか?」
異様な動きを見せるセオドールに、マリアベルが振り返り尋ねる。
「いや……」
セオドールは目を泳がせて、歯切れの悪い返事をした。彼の頬が赤らんでいるのは、まだ顔も出していない夕日のせいではないはず。
「君と……」
はっきりしないセオドールに、マリアベルは無言のまま、じっと彼を見つめた。
(最近、分かった事がある……)
その瞳を見つめ返しながら、ふとセオドールの記憶はマリアベルとの顔合わせの日に戻っていた。
——暖かな木漏れ日が差し込む春の午後、二人は鮮やかな花が咲き誇る庭園で出会ったのだ。
『初めまして、アイゼンハルト嬢。俺はセオドール・ベルグラードと申します』
『お初にお目にかかります。マリアベル・アイゼンハルトと申します。今後とも、どうぞよろしくお願いします』
(君は初めて会った日も、そうやって俺をじっと見つめてたよな)
——思い返せば、瑞々しい緑が生い茂る夏の王都を二人で散策したいと期待する日もあった。
『マリアベル嬢は王都に来てまだ日が浅いとか……』
『えぇ、さようでございます』
『では今度俺が王都を案内しますよ!』
『お心遣い感謝致します。ですが、王都の地理に関して、全て頭に入れて参りましたわ。心配には及びません』
『……そ、そうですか……』
(今思えばあの時の会話も、マリアベルは俺をあしらったのではなく……本当に王都の地理を丸暗記していたんだろうな)
——目に痛いほどの紅葉が山を染めていく秋になると、いつの日からかマリアベルに見つめられる事が苦手だとセオドールは感じるようになっていた。
完璧な彼女の目に自分がどう映っているのか気になって、期待して、でも彼女は何も言わず彼に無関心なままだから、次第に見つめられると品定めされている気分になっていったんだ。
『この紅茶は独特な香りがしますね……あ、素晴らしい香り、という意味で……』
『アイゼンハルト領産の茶葉ですわ』
『そうですか……! 味もまろやかで、俺も気に入りそうです』
『……では、セオドール様のお帰りに茶葉を包ませましょう』
『ありがとうございます。毎日飲みます』
『そうですか』
『あの、マリアベル嬢は……』
『…………』
『……俺、そろそろ帰りますね』
『分かりました、お見送り致します』
(俺が見逃していただけで、彼女は彼女なりに俺をもてなそうとしていたんだよな)
——気付けば、枝から葉が枯れ落ちた冬、代わりに彼の心と同じように冷たい雪が積もっていた。
『あの、マリアベル……』
『…………』
『……いや、なんでもない』
『そうですか』
(あの時だって俺が言いかけた言葉を、彼女はずっと待っていたんだ……)
セオドールはこの三年間、マリアベルとどう向き合えばいいのか分からなかった。自分一人だけが舞い上がって、空回りして、とても恥ずかしくて、プライドも傷付いた。
だからといって彼がした事が許される訳ではないけれど、でも、確かにセオドールはこの三年間、失望と後悔に苦しんでいた。
(初めてマリアベルに会った時、君があまりにも綺麗で輝いていたから、俺はきっとその光に憧れてしまったんだ)
だからセオドールはマリアベルの光だけを見つめて、勝手に期待して勝手に失望して、はなから彼女自身を見ていなかった。
自分の手を見つめる。アイゼンハルト領で行った一週間の婚約者教育の時とは、まるで言葉の重みが違かった。
(あの時は、あんなに簡単に言えた言葉だったのに……)
マリアベルを見れば、彼女は三年前と変わらない薔薇色の瞳で、じっとセオドールを見つめて彼の言葉を待っている。
(彼女はあの日と変わらない。変わってないんだ、俺達は、まだ何も)
——だから。セオドールが足を止めると、マリアベルも数歩進んだ先で足を止めた。
(俺が変われば……俺達もまた、変われるかな?)
そして、振り返る彼女にセオドールは手を差し出す。
「君と手を繋ぎたい」
マリアベルは少し目を開くと、固まったまま静かにセオドールが差し出した手を見つめた。
前回と同じだ。あの時、セオドールは何と言って彼女と手を繋いだんだっけ?
『「夫婦」模擬演習だろ?』
セオドールは愛おしい気持ちを込めて笑顔を浮かべながら言った。
「俺達、婚約者同士だろ?」
そう言って、マリアベルの手を掴む。すると彼女の手が握り返してきた。
それがとても嬉しくて、セオドールははっきりと自覚する。
(俺は、君に惹かれてる)
最初は確かに『完璧令嬢』への憧れだった。期待と失望を乗り越えて、そして今、セオドールは『マリアベル』に恋をしている。
「……マリー。腹も減ったし、ディナーでも行かないか?」
こうして、まだ別れ難くて何とか一緒にいられる理由を探すくらいに、彼は彼女が好きだ。
「夕食には少し早い時間ですけれど、まぁ……良いでしょう」
マリアベルはあの日と変わらない瞳でセオドールを見つめ続けるけれど、セオドールはすっかり変わってしまった。
(君はそのままの君でいればいい。俺がもう、諦めなければいいだけの話だ)
一度は諦めかけた二人の関係。でも、セオドールはこの繋いだ手を離す気はなかった。
「夕食の後、星でも見に行かないか?」
「今日は少し曇ってますけれど」
「食後のデザートとして、ケーキショップに寄ろう!」
「私の体型を崩すおつもりですか?」
「だったら、その後は二人で乗馬すればいい」
「一体、いつ眠る気です……?」
セオドールとマリアベルは互いに顔を見合わせた。
「では……数日後の夜会に、一緒に参加しないか?」
「それなら……そうしましょう」
マリアベルはこくりと頷いて続ける。
「夫婦模擬演習ですね」
「いや、デー……まぁ、いいや。君がいいならそれで」
セオドールはクスクスと笑いながら言った。
「俺達二人が年老いて死ぬまで夫婦模擬演習し続けていても、俺は構わないよ」
どこか様子の変わった彼を、マリアベルは疑わしげな目で見つめながら少し眉を顰めていた。
「……そうなると私達、一生婚約者同士ですね」
「別に婚約者同士でもドレス着て教会で未来を誓い合ってもいいんじゃないか?」
それは結婚と何が違うのだろうと、マリアベルは首を傾げたくなったが、セオドールが楽しそうにしているから、彼女は何も言わずに彼の好きにさせてやる事にした。
「……夕食の後、夜会で身に付けるお揃いの宝石でも見に行かないか?」
「まだ言いますか」
二人は専属馬車に乗り込むと、そのまま夕陽が差し込み始めた王都の中心地に向かったのだった。




