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ep.15 僕の完璧令嬢

「——それで、君が婚約者殿の教育をする事になったの?」


 微睡を誘うような暖かい光の中、ルシアンの青い瞳は楽しそうに細められ、彼のその金髪は光に透けて輝いていた。


 王宮の眩い午後を過ぎた頃、マリアベルとルシアンはテーブルを挟んで向かい合い、互いに香り立つ紅茶を嗜んでいる。


 定期的に行われる二人の茶会は、友人同士というのもあるが政治的な意味合いが強く含まれているものだった。

 マリアベルがこうしてルシアンの元へ訪れる事で、婚姻で結ばれなくとも王太子派貴族としてのアイゼンハルト侯爵家の立場を示し続けているのだ。


 ルシアンはちょうど、彼女から浮気疑惑が浮上したセオドールの事の顛末をマリアベルから聞いているところだった。


 話し終えた彼女は澄ました顔で、柔らかな湯気のたつ紅茶を静かに啜った。


「僕はてっきり……」


 そこで言葉を切って口を閉じると、続く言葉を誤魔化すようにルシアンもまた紅茶を一口飲んだ。


「……まぁ、君らしい結果だね」


 マリアベルは少し首を傾げながら、ルシアンを見た。その薔薇色の瞳には、柔らかく微笑む王太子の姿が映っている。


(懐かしいな……君が変わろうと決意した、あの日の事……)


 ルシアンはふと、昔の記憶に引っ張られた。


『マリアベル、またお茶会で失敗したんだって?』

『…………』


 子供の頃、ルシアンとマリアベルはアイゼンハルト領で暮らしていた。

 一つ年下の彼女を、彼は兄のように世話を焼いていて、周りの者が二人はまるで兄妹のようだと微笑ましく見守っていた時代。


『彼女達とは話が合わない』


 今よりも小さなマリアベルがムスッとした顔でそっぽを向いた。


『近隣領地の令嬢達だろう? 仲良くしておいて、損はないよ』

『でも……』


 ルシアンの宥めるような言葉に、マリアベルは悔しそうに顔を顰める。


『あの人達、私を田舎者の野蛮人だって言ったんだ。乗馬を嗜む事が、そんなにいけない事なの?』


 マリアベルは泣かない。でも、握り締められた小さな拳は震えていて……彼女の心は泣いているようだった。


『マリアベル。君は、十五歳になったら王都のアカデミーに通うだろ? 今からそんなんじゃ、先が思いやられるよ』

『……私じゃ無理』

『そう言い捨てないで。貴族とは欺瞞に満ちた世界だよ。マリアベルは素直で純粋だから、僕は少し心配だな』

『…………』


 すっかりいじけてしまったマリアベルを見つめ、ルシアンは優しく彼女の頭を撫でてやる。


『じゃあ、こうしよう。マリアベル、僕だけは君の本当の姿を見ているから、彼らの前では仮面を被るんだ』

『仮面?』


 顔を上げて聞き返してくる薔薇色の瞳に、小さな欲望を上手く隠したルシアンの青い瞳が答える。


『うん。誰も君に文句なんて言えない「完璧」な令嬢の仮面を……ね』

『……分かった。やってみる』


 マリアベルは小さく頷いて、そっとルシアンの手を握り締めた。


『だからルシアンは、ずっと……私の理解者でいてね』


 彼女のその言葉に、ルシアンの心の底が震えた事を今でも覚えている。


『勿論。僕は君の絶対的な理解者だよ』


 ニコリと笑いながら、マリアベルの幼い手を握り返したあの日、ルシアンは確かに幸せだったんだ。


(誰も君の本心なんて知らない……ずっと僕だけの『完璧令嬢』でいてね)


 当時、力の無い第一王子だったルシアンには、その方法でしか好きな子(マリアベル)を繋ぎ止めておく事が出来なかったから。


 ルシアンがアイゼンハルト領に来た経緯は簡単だ。既に亡くなってしまった正妃の息子であり正統な王位継承者であるルシアン……彼は母親の毒殺事件に巻き込まれて、命を狙われていた。

 王室では第二王妃が力を持っていた。後ろ盾を無くしたルシアンにとって、そこは死地だった。


 彼はずっとマリアベルが好きだったけれど、自分の立場を考え、その恋心をずっと胸にしまい彼女との幼少期を過ごしてきた。


 ——いつか、自分の地位が回復した時、この気持ちを彼女に伝えよう。


 その希望のおかげでルシアンは、特に辛くなかった。誰も自分達の間に入り込める者なんていないと思っていたから。


 でも、予想外だったのは、マリアベルとセオドールの婚約だった。

 そして皮肉にも、その婚約のおかげでルシアンは王太子となり、確固たる地位を得られたのだった。


 ルシアンは敗北を知る王子だ。どんなに悔しさと嫉妬を心に抱えても微塵も出さずに、『よき理解者』として今日までルシアンはマリアベルの側に辛抱強く居続けた。だから……


(まさか、婚約破棄にならなかったなんて……残念だな)


 こればかりは、本当に心の底から落胆する。


「まぁ、そういった結果となりましたわ。では、私はそろそろ……」

「まだ早い時間だよ。予定でもあるの?」


 立ち去ろうと椅子から腰を上げるマリアベルを引き留めて、不思議そうな目を向けてルシアンが尋ねると、彼女は冷たい無表情で淡々と答えた。


「……午後から、セオドール様との夫婦模擬演習がございますの」

「夫婦模擬演習……? なんだい、それ……」


 ルシアンは思わず半笑いな表情で聞き返す。すると、マリアベルは目を細めてひやりとした美しい笑顔を浮かべた。

 その時の彼女の瞳が、どこか楽し気に揺れているようにルシアンには思えた。


「これも、婚約者教育の一環ですわ」


 マリアベルは、ルシアンがよく知る『完璧令嬢』に相応しい優雅な姿だった。でも、どこか違和感を感じてしまう。その姿がなぜか、昔の人付き合いの苦手だった頃の幼い彼女と姿が一瞬重なって見えたからだろうか。

 ルシアンが彼女を変えてしまう前の、『マリアベル・アイゼンハルト』という少女に……


「——今回の事で、婚約破棄を選ばなかったのはなぜ?」


 さっき確かに飲み込んだ筈の言葉を、ルシアンは無意識に呟いていた。


 彼がハッとして目の前のマリアベルを見た時、彼女の薔薇色の瞳がじっと自分を見つめていた。


「…………それは……」


 マリアベルは言いかけてから、暫し沈黙する。なぜ、自分は婚約破棄を選ばなかったのか。自分にも一割の過失があったと分かったから?

 いや……それに対する明確な理由は、彼女自身もよく分からない。


『君、どこの家の子だ? こんな所にひとりで……怪我はないか?』

『初めまして、アイゼンハルト嬢。俺はセオドール・ベルグラードと申します』


 なぜ今、その二つの記憶が浮かんだのか、マリアベル自身にも分からなかった。


「…………」


 目を伏せるようにしてルシアンから目を逸らすと、マリアベルは席から立ち上がった。彼女はなぜか、友人以上の兄として慕うルシアンにさえも、この感情を悟られたくなかった。


「それは私が、アイゼンハルトだからですわ」


 嘘だ。と、ルシアンはマリアベルの優雅な笑顔を見つめながら思う。


「ルシアン殿下をお支えし、忠義を尽くす事が我が侯爵家の務め。何人たりとも、貴方の邪魔はさせない」


 ベルグラード公爵家との縁組を継続するのも、全ては政治的理由だと主張したいらしいマリアベルを、ルシアンはそれ以上問いたださなかった。

 そんな事をしなくても、彼は彼女の事を理解している。


 彼女の『理解者』であるルシアンには、マリアベルが今、自分に対して心の内で何か隠し事をしたとよく分かっていた。


「では、殿下。失礼いたしますわ」

「うん。よい午後を」


 マリアベルの挨拶にルシアンが返事を返すと、彼女は彼の元から去っていった。


 その後ろ姿を見つめながら、ルシアンの青い瞳は僅かに翳っていく。


(……マリアベル。君はまだ……僕の愛する『完璧令嬢』だよね……?)


 ルシアンの心に一抹の不安が過った。


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