第3話 迷い子の森と消えた恩恵(春、雛)
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圭と結が新たな一歩を踏み出すその裏側で、春と雛はとんでもない大ピンチに……!?
武器は「木の枝」一本。頼れるのは己の技術と、妹の頭脳のみ。
少女たちの波乱に満ちたサバイバル生活の始まりです。
応援よろしくお願いいたします!
遥か地平線にそびえ立つ巨大な城壁都市を目指し、一歩ずつ大地を踏みしめる圭と結。
二人が新たな希望へと歩み始めたその裏側で――運命の悪戯は、別の場所へ放り出された二人の少女にも、等しく「試練」を与えていた。
場所は、深い緑に包まれた静寂の森。
その木立の中に、場違いなほど質素な木造の小屋が、ぽつんと佇んでいた。
「……ん……んっ」
冷たい床の感触に、春は意識を浮上させた。
剣道全国大会優勝者としての鋭い直感と、鍛え上げられた身体能力。それらが、目覚めた瞬間に彼女の五感を研ぎ澄ませる。
しかし、瞼を開けた彼女が目にしたのは、見慣れた道場の天井ではなく、節穴だらけの荒末な板張りだった。
「……ここ、どこ……?」
起き上がろうとして、春は自分の体に凄まじい違和感を覚えた。
視界が極端に低い。そして、何よりも――。
「え……っ!? な、なに、これっ!?」
肌を撫でる冷ややかな空気。
そこにあるはずの道着も、シャツも、何もかもが消えていた。
春は弾かれたように飛び起きると、自分の体を抱きしめるようにして蹲り、周囲をキョロキョロと見渡して激しく動揺した。
「うそ、裸!? なんでっ、どうして!? 春、なんで何も着てないのっ!?」
顔を真っ赤にし、あわあわと両手を振り回して混乱する春。
さらに、自分の四肢が幼子のように短くなっていることに気づき、彼女の動揺は頂点に達した。
だが、その時。混乱した脳裏に、あの眩い光の中で聞いた精霊コハクの言葉が蘇る。
自分たちが若返ること、そして異世界「アステリア」へと転移すること。
「……あ、そうだった。春たち、本当に異世界に来ちゃったんだ……」
ようやく状況を思い出し、春は荒い呼吸を整えた。
8歳児ほどの姿。しかし、その幼い体には不釣り合いなほどの……将来を約束された「膨らみ」が、隠しようもなく存在を主張している。
彼女は自分の胸元を隠すように腕を組み、周囲を警戒するように見渡した。
(……よかった。圭がいなくて、本当によかった……っ!!)
もし、この無防備すぎる姿を初恋の相手に見られていたら。
今ごろ羞恥心で、剣道の試合以上に心臓が破裂していただろう。
春は安堵の溜息を漏らし、必死に平静を装った。
しかし、すぐ隣で、同じように一糸纏わぬ姿で眠る妹――雛の存在に気づくと、再び緊張が走る。
「そうだ、雛! 起きて、雛っ!」
春は慌てて妹の肩を揺すった。
6歳児ほどのサイズにまで若返った雛は、うっすらと目を開ける。
彼女は極度の男性恐怖症であり、学年1位の秀才でありながら、予想外の事態にはめっぽう弱い、おっちょこちょいな性格だった。
「ひ……ひにゃぁ……? 春姉ぇ……? ここ、どこ……?」
「雛、思い出して。あのコハクって子が言ってたでしょ? 私たち、別の世界に来たの!」
「別の、世界……? 服……? 春姉ぇ、なんで服着てないの……?」
雛が視線を下に落とする。
真っ白な肌。丸出しの自分。そして、姉である春以上に豊かな、将来への「希望」がそこにはあった。
状況を整理しようとした雛の天才的な頭脳は、あまりの羞恥心に一瞬でオーバーヒートを起こした。
「…………いやあああああああああああっ!!」
雛の絶叫が、狭い小屋の中に木霊した。
知的で冷静な彼女の面影はどこへやら。パニックに陥った雛は、恐怖のあまり思考を完全に停止させてしまった。
「雛、落ち着いて! 待って!」
「いやっ、見ないでぇ! 誰かいるかもしれないっ、恥ずかしい、怖いっ!!」
雛は転びそうになりながらも、本能のままに出口へと突進した。
「運動神経皆無」という設定は、幼体化しても変わっていない。ふらつきながらも、彼女は勢いよく小屋の扉を蹴破るようにして飛び出した。
「ちょっと、雛! 外はもっと危ないってば!」
春もまた、妹を放っておけずに裸のままその後を追う。
二人が転がるようにして森の草むらへと飛び出した、その瞬間だった。
背後で、パチンと空気が弾けるような音がした。
二人が驚いて振り返ると、そこにあったはずの木造の小屋は、霧が晴れるように跡形もなく消え去っていた。
「……え?」
呆然と立ち尽くす、裸の姉妹。
陽光に照らされた彼女たちの真新しい肌を、森의 冷ややかな風が撫でていく。
彼女たちは知る由もなかった。
神の慈悲によって、その小屋の隅には、圭や結の時と同じように「麻のシャツ」と「短パン」が丁寧に人数分用意されていたことを。
順序を間違えなければ、彼女たちは尊厳を保ったままこの世界の一歩を踏み出せたはずだった。
「ひ、雛……どうしよう……」
「うええぇぇん、春姉ぇ……寒いよぉ、恥ずかしいよぉ……っ」
広大なアステリアの森に、幼い姉妹の泣きべそが虚しく響き渡る。
彼女たちの、波乱に満ちた異世界生活が、最悪の形で幕を開けた。
冷たい風が、一糸纏わぬ二人の幼い肌を無慈悲に撫でる。
春は必死に腕で自分の体を隠し、震える雛の肩を抱き寄せた。
「服……服を探さないと……っ」
「春姉ぇ、怖いよぉ……。ここ、どこなのぉ……」
情けない声を上げる雛を励まそうとした、その時だった。
森の奥から、静寂を切り裂くような複数の足音が近づいてくる。
「誰かっ! 誰か助けてくれっ!!」
現れたのは、ボロボロの服を纏った二人の旅人だった。
必死の形相で森を駆ける彼らは、立ち尽くす全裸の少女たちに気づくと、一瞬だけ目を見開いた。
だが、彼らに驚く余裕など残されてはいなかった。
「お、おい、お前たち! 逃げろ、早くっ!!」
旅人の一人が叫ぶ。しかし、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
ひゅん、という空気を切り裂く鋭い音。
背後から飛来した一本の矢が、旅人の背中を深々と貫いたのだ。
「がはっ……っ!?」
前のめりに倒れ込む旅人。
それと同時に、茂みから数人の男たちが躍り出た。
下品な笑みを浮かべ、血に飢えた瞳をした「盗賊」たちだ。
「ヒャハハハッ! 逃げ切れると思ったかよ!」
一人の盗賊が、倒れた旅人の髪を掴んで無理やり引き起こすと、その喉元を冷酷な刃で一文字に切り裂いた。
噴き出す鮮血。
もう一人の旅人も、逃げる間もなく背後から斧で叩き伏せられた。
「あ……あぁ……っ」
春の喉が、恐怖で引き攣る。
剣道の全国大会で何度も死線を潜り抜けてきた彼女だったが、本物の「死」を、それも暴力による殺戮を目の当たりにしたのは初めてだった。
そして、その悲劇は、あまりにも二人の至近距離で起きてしまった。
どろりと重い感触が、雛の白い頬と肩に飛び散る。
「……ぁ」
雛は呆然と、自分の肩を濡らす「赤い液体」を見つめた。
温かい。いや、生温かい。
つい数秒前まで助けを求めていた人間の、命そのものの色。
「……いやあああああああああああああああっ!!」
雛の叫びが、森全体を震わせるように響き渡った。
人が死ぬ瞬間。肉が裂ける音。そして、自分を汚す死者の血。
男性恐怖症である彼女にとって、粗暴な男たちによる殺戮は、精神を崩壊させるのに十分すぎる衝撃だった。
「ひ、雛っ! 雛、見ちゃダメっ!!」
春が慌てて妹を抱きしめるが、雛の絶叫は止まらない。
パニックに陥り、狂ったように自分の肌を掻きむしり、その場に崩れ落ちる。
「おやおや、こいつは驚いた」
盗賊の一人が、血濡れの刃を拭いながら、ようやく二人の存在に気づいた。
獲物を狙う獣のような下劣な視線が、裸のまま震える幼い姉妹へと向けられる。
「こんなところに、極上の『獲物』が転がってるじゃねえか。しかも、こりゃあ……将来が楽しみな逸材だぜ」
「ギャハハ! 旅人の荷物より、こっちの方が高く売れそうだな!」
男たちの下卑た笑い声が、雛の悲鳴に重なる。
血飛沫に汚れ、尊厳を奪われ、死の淵に立たされた姉妹。
アステリアの森は、彼女たちの涙さえも冷たく飲み込んでいった。
血飛沫を浴び、絶望の叫びを上げる雛。
下卑た笑いを浮かべながら、幼い獲物へとにじり寄る盗賊たち。
絶体絶命と思われたその瞬間、春の瞳から「迷い」が消えた。
「……雛、大丈夫。春が守るから」
春は震える妹を背に隠しながら、足元に落ちていた手頃な太さの木の枝を拾い上げた。
長さは三尺ほど。皮の剥がれた無骨な枯れ木。
しかし、それを右手に取った瞬間、彼女の纏う空気が一変した。
「――ッ!?」
盗賊たちの一人が、思わず足を止めた。
目の前にいるのは、服すら着ていない無防備な8歳の少女。
だが、今の彼女からは、先ほどまでの「弱者」としての気配が霧散していた。
春は静かに、その木の枝を正中線に合わせて構えた。
その姿は、あまりにも美しく、そして残酷なまでに完成されていた。
それは、剣道全国大会優勝という、日本における武の頂を極めた者にしか到達し得ない至高の領域。
小さな足は吸い付くように大地を捉え、腰の据わりには塵一つ分の揺らぎもない。
幼い背筋は天に向かって真っ直ぐに伸び、重心の芯は寸分の狂いもなく垂直に落ちている。
神の視点から見れば、それはもはや一つの「芸術」であった。
肉体の小ささを補って余りある精神の重圧。
一糸纏わぬ全裸という、本来なら最大の隙であるはずの状態が、その完璧な構えによって「一切の無駄を削ぎ落とした武の極致」へと昇華されていた。
見る者に「一歩でも踏み込めば死ぬ」と直感させる、静謐なる武の化身。
「……あ、あぁ? 何だその構えは! 脅しのつもりかよっ!!」
恐怖を打ち消すように、盗賊の一人がナイフを突き出し、春へと飛びかかった。
狂乱した男の、泥臭い突進。
だが、春の瞳には、その動きが止まっているかのように緩慢に映っていた。
「……はぁっ!」
鋭い呼気。
春は流れるような運足で、男の刺突を紙一重でかわした。
回避と同時に、彼女の小さな体は最短距離を突き進む。
木の枝であるはずのそれが、まるで鍛え上げられた鋼の剣を弾いたかのような、鋭く重い硬質の音を響かせた。
ドォォンッ!!
重苦しい衝撃音が森に響く。
春が放った木の枝の先端は、吸い込まれるように盗賊の鳩尾を貫いていた。
細い腕に宿る、全身のバネと体重移動、そして「点」を捉える精密な技術。
それらが一つに重なり、圧倒的な破壊力を生み出したのだ。
「が、はっ…………」
盗賊は悲鳴を上げる間もなく、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
一撃。それは相手の命を奪わず、かつ確実に再起不能に追い込む、洗練された一打。
「ひっ……!? な、な、何だ今の動きは……っ!」
「ありえねえ! ただのガキが……っ!」
残された盗賊たちが戦慄する。
彼らの目に映るのは、倒れた仲間を見下ろす、神々しいまでの気迫を纏った全裸の少女。
「……帰りなさい。次は、手加減できないから」
春の静かな、しかし芯の通った声が森を支配する。
その瞳に宿る、逃れようのない「死」の気配。
「こ、このガキ……戦闘系の『ギフト』持ちかよっ!?」
「化け物だ! 逃げろ、ずらかるぞ!!」
獲物だと思っていた少女が、実は自分たちを容易に屠れる「捕食者」であったと理解した瞬間、盗賊たちは蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ去っていった。
だが、彼らは致命的な勘違いをしていた。
現在の春は、まだ『ギフト』を一切開花させていない。ステータスによる補正も、超常的な力も、今の彼女には備わっていないのだ。
これは、彼女がかつての世界で、気の遠くなるような時間の修練を重ね、血の滲むような努力の末に培ってきた純粋な「技術」の賜物。
魂に刻まれた武の記憶は、幼き肉体の制約すらも凌駕し、この異世界の理を力ずくでねじ伏せたに過ぎない。
静寂が戻った森の中で、春はゆっくりと構えを解いた。
手にした木の枝を捨て、彼女は再び一人の、震える少女に戻る。
「……雛。もう、大丈夫だよ」
血に汚れたまま、呆然と座り込む雛を、春はそっと抱きしめた。
その小さな体は、今の激闘を物語るように、冷や汗でびっしょりと濡れていた。
盗賊たちが逃げ去った後の森には、重苦しい沈黙と、鉄錆のような生々しい血の匂いだけが漂っていた。
春は手に持っていた木の枝をそっと足元に置くと、震える膝を叱咤して二人の旅人の亡骸へと歩み寄る。
「……雛、ちょっと待っててね」
春はそう短く告げると、物言わぬ骸の前で膝をつき、静かに両手を合わせた。
その瞳には、かつての平和な日本で育まれた倫理観と、この過酷な異世界で生き抜こうとする野生的な本能が、激しく火花を散らしている。
「ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい。でも、私たち、生きていかなくちゃいけないの。……これは、あなたたちが遺してくれた助けだと思って、大切に使うから」
唇を血が滲むほど噛み締めながら、春はまだ温もりの残る遺体から、血に汚れたシャツを丁寧に脱がせていった。
返り血で赤く染まり、泥に汚れたその布切れは、今の彼女たちにとっては何よりも代えがたい「防具」であり、失いかけた「尊厳」そのものだった。
「雛、これ……着て。血がついてて、かなり大きいけど……ないよりはマシでしょ?」
春は立ち上がり、呆然と座り込んでいた雛に、そのシャツを差し出した。
6歳という幼体になった雛にとって、成人男性のシャツはあまりにも巨大だ。頭から被れば、その裾は足首を叩くほど長く、まるでぶかぶかなワンピースのようであった。
「……ん……ありが、とう……春姉ぇ……」
雛はまだショックから抜け出せない様子で、力なく、それでも必死にシャツの裾を握りしめた。
春もまた、もう一人の旅人のシャツを同様に脱がせ、自分の小さな体に纏う。
8歳の彼女にとってもそれは同じで、大きなシャツ一枚で全身がすっぽりと隠れ、辛うじて肌を外気から守ることができた。
「……これ、使えそう」
さらに春は、旅人の腰に差してあった小さなナイフと、古びた革のリュックを拾い上げた。
文明の利器を手にし、ようやく彼女の瞳に、わずかながらの「生活への光」が宿る。
「よし。雛、歩ける? ここにいたら、また悪い人が来るかもしれない。……どこか、体を洗える場所を探そう」
春は雛の小さな手を強く引いた。
大人用のシャツをドレスのように引きずりながら、幼い姉妹は血の匂いが漂う場所から逃れるように、鬱蒼とした森の奥へと一歩を踏み出す。
神の視点から見れば、それはあまりにも危うく、それでいて奇妙に力強い光景であった。
かつて圭が信頼を寄せ、結が導いた二人の少女は、今、自らの手を「生」のために汚すことで、この異世界の洗礼を乗り越えようとしていた。
耳を澄ませば、木々のざわめきに混じって、涼やかな水の音が聞こえてきた。
春は雛の手を引き、藪をかき分けてその音の主――透き通った水を湛える小さな川へと辿り着いた。
「……水だ」
安堵の溜息を漏らす春。しかし、隣に立つ雛はいまだ恐怖に縛られたまま、ガタガタと震えて川べりに蹲ってしまった。
頬や髪にこびりついた、あの旅人の血。それが雛の精神を、今もなお蝕んでいる。
春はすぐに、先ほど身に纏ったばかりの大きなシャツを脱ぎ捨てた。
再び一糸纏わぬ姿。冷え込む森の空気が、8歳の柔らかな肌を直接刺す。
誰かに見られるかもしれないという羞恥心や、魔物への恐怖はもちろんあった。
けれど、それ以上に、この「死の色」をいつまでも身に付けておくわけにはいかなかった。
(……本当は、あの人たちのズボンも借りた方が、動きやすかったんだろうけど)
脳裏に、あの亡骸の姿が浮かぶ。
精神年齢17歳の、多感で純粋な乙女である春にとって、見ず知らずの異性の下衣を脱がすという行為は、あまりにもハードルが高すぎた。
今の彼女には、上半身のシャツを剥ぎ取るだけで、心の限界だったのだ。
「……よし。まずは、春のから」
春は川の冷たさに身を震わせながら、血のついたシャツを丁寧に洗い始めた。
赤黒い染みが、清らかな流れに溶けて消えていく。
一通りシャツを洗い終えると、彼女は意を決して、自身の体も川の水で清め始めた。
冷たさに肌が粟立つが、指先で丁寧に血の跡を拭い去っていく。
その後、春は雛のそばに寄り添い、優しくその肩に手を置いた。
「雛。雛も、その服を脱ぎなさい。お姉ちゃんが綺麗に洗ってあげるから。……体も、さっぱりしよう?」
「……春、姉ぇ……」
雛はうつろな瞳で姉を見上げると、抗うことなく、おとなしくシャツを脱いで手渡した。
小さな、あまりにも小さな6歳の白い裸体。
春は雛のシャツを洗い、さらに雛の体についた汚れも、冷たい水に浸した布で丁寧に、慈しむように拭ってあげた。
洗い終えた二枚のシャツを近くの枝に干すと、春は先ほど拾い上げたナイフを手に取った。
「……このままじゃ、邪魔だよね」
春は、かつての自分を象徴するかのような長い髪を、一掴みにした。
そして、躊躇うことなくナイフの刃を当てる。
ギチ、と鈍い音がして、美しい黒髪が地面へとハラハラと落ちていった。
「春姉ぇ……? 髪、切っちゃうの……?」
「うん。この方が、動きやすいし……戦いやすいから」
切り口は不揃いだが、剥き出しの肩まで短くなったその髪型は、彼女の凛とした瞳をより一層際立たせていた。
少女としての虚飾を捨て、一人の「武人」として生きる決意の表れ。
短くなった髪を風になびかせながら、春は相変わらず震えながら蹲る雛を、背後から力強く抱きしめた。
「……もう、大丈夫だよ。雛」
肌と肌が触れ合い、互いの体温が伝わってくる。
その小さく、壊れそうな鼓動を感じた瞬間、春の心に一つの確固たる楔が打ち込まれた。
(この子は……私が、絶対に守る。何があっても、私が、この子の盾になるんだ)
それは、これまでの部活動で培ってきた責任感とは、全く質の異なるものだった。
自分たちが住んでいた場所から遠く離れ、頼れる大人もいないこの世界で、自分が「お姉ちゃん」として生き抜くための、血を吐くような誓い。
春は、人目につきにくい巨大な古木の木陰へと雛を連れて行った。
お互いの裸を寄せ合い、大きなシャツの乾きを待ちながら、極限の緊張から解放された二人は、泥のような深い眠りへと落ちていく。
神の視点から見れば、それは森の静寂に守られた、儚くも美しい一枚の絵画のようであった。
けれど、その眠れる少女たちの傍らには、短く切り揃えられた黒髪の残骸と、一振りの鋭いナイフが、不退転の覚悟と共に静かに横たわっていた。
アステリアの森に、二度目の朝が訪れた。
木々の隙間からこぼれ落ちる陽光が、大きな古木の根元で身を寄せ合う二人の少女を優しく照らし出す。
春が意識を取り戻したのは、頬を撫でる爽やかな風に、昨日切り落としたばかりの短い髪が揺れたからだった。
(……あ、そうだ。春、髪……切ったんだっけ)
不揃いな毛先に指で触れ、昨夜の惨劇と、それを乗り越えるために下した自らの決断を思い出す。
傍らでは、雛がまだ小さな寝息を立てていた。春は立ち上がり、枝に干していた大人用のシャツを手に取る。
「……うん。乾いてる」
春はそれを頭から被った。
八歳の幼い肉体にはあまりにも巨大なシャツは、膝下までをすっぽりと覆い、まるで即席のワンピースのようだ。
続いて目を覚ました雛も、同じようにぶかぶかのシャツを纏う。
昨夜のパニックが嘘のように、今の雛の瞳には、わずかながらも「生」への理性が戻っていた。
「雛、出発の前に……これ、確認しておこう」
春は、精霊コハクが語っていた言葉を意識の底から手繰り寄せた。
この世界のシステムに干渉するための、鍵となる単語。
「……ステータス!」
春の声に呼応し、目の前の空間が淡く波打つ。
出現したのは、青白く発光する半透明のプレートだった。
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【ナマエ:シライシ ハル】
【ネンレイ:8】
【レベル:1】
【ギフト:――】
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「……カタカナ? なんだか、すごく読みづらいね」
春が眉をひそめたその時、頭の中に直接、機械的な無機質さと慈悲深さを併せ持つ声が響いた。
『――翻訳機能を起動しますか? YES/NO――』
「トランスレート……。雛、これ、YESだよね?」
「うん……。たぶん、私たちの言葉に直してくれるんだと思う」
二人は空中に浮かぶ「YES」の文字を、小さな指先でタップした。
その瞬間、プレート上の文字が激しく明滅し、熱を帯びて変容していく。
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【名前:白石 春】
【年齢:8】
【レベル:1】
【ギフト:――】
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「……『白石 春』。よかった、ちゃんと名前、漢字になってる」
自らの真名がフルネームで刻まれたことに、春は微かな安堵を覚える。
続いて雛もステータスを表示させ、【白石 雛】という三文字を確認して静かに頷いた。
しかし、ギフトの欄は依然として『――』のまま、空白が広がっていた。
コハクが言っていた通り、冒険者協会で「開花」の儀式を受けるまでは、その力を振るうことはできないらしい。
「雛、リュックの中も確認しよう」
昨日手に入れた旅人のリュックサックを広げると、春はまず革の財布を取り出した。
中には金色の硬貨が2枚、銀色の硬貨が3枚、そして銅色の硬貨が8枚。
「大事に使わなきゃ……」
春は財布をリュックの奥へと丁寧に仕舞い込んだ。続いて、小さなナイフもリュックの隙間へ差し込む。
精神年齢十七歳の少女にとって、慣れないナイフをむき出しで持ち歩くのは不安だったし、何よりぶかぶかなシャツにはそれを固定する帯すらない。
その代わり、春は傍らに落ちていた、適度な太さと重みのある「木の棒」を拾い上げた。
「春には、こっちの方がしっくりくるかな」
剣道の達人である彼女にとって、短く鋭い刃物よりも、リーチのある棒の方が、肉体の不利を補う武器として現実的だと判断したのだ。
最後に、リュックから一枚の羊皮紙――地図を取り出す。
そこには広大な森の一角に赤丸が付けられていた。
さらに北の方角には堅牢な城壁を構えた大きな都市。そして逆の南側には、小規模な村らしき場所が記されていた。
「多分今はこの森ね。この大きな町を目指そう。ここに行けば、きっと圭や結姉ぇに会えるヒントがあるはずだよ。……ええと、太陽が昇ってるあっちが東だよね。だから、あっちを右にして歩けば北のはず!」
春が希望を込めて昇り始めた太陽を指差すが、雛は真剣な表情で首を振った。
「ダメだよ、春姉ぇ。その考え方は危険」
「えっ、なんで?」
「太陽の昇り方は、その星の自転方向で決まるの。ここが地球と同じ方向に回っている保証はないし、地軸の傾きだってわからない。太陽を基準にするのは、確実じゃないよ」
学年1位の秀才らしい、冷徹な分析。春は「うっ」と言葉を詰まらせた。
「じゃ、じゃあ、どうすればいいの?」
「……木の成長を見て。植物が日光を避けて湿気を好む性質は共通しているはず。……ほら、あの幹の苔を見て。日光が当たらない側に生えるから、あれが南北の軸になるよ」
雛が指差した大樹の根元には、湿った苔がびっしりと張り付いていた。
「こっちを基準にして、地図と照らし合わせよう。もしここが北半球なら、苔のある方が北。反対でも、南に進めば小さな村がある。どっちに進んでも、確実に人里に出られるよ」
「……さすが雛! 本当に頼りになるね」
春は雛の頭を撫でると、一振りの「木の棒」をしっかりと握りしめた。
「行こう、雛。……圭たちも、きっとどこかで頑張ってるはずだから」
大人用のシャツの裾を翻し、幼き達人と天才少女は、運命の交わる場所――北の城壁都市を目指して、未知の森へと力強く踏み出していった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
服すら失った絶望的な状況でのスタートでしたが、姉妹の絆と、春の「武の極致」がいかんなく発揮されたお話でした。
さて、次回は視点が変わり、「阿久津編」をお届けする予定です。
彼は一体どんな状況で、この異世界に降り立ったのか……?
次回もぜひお楽しみに!
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