第四十話 翔太の本当の恐怖
木村のログを見つけてから数日、翔太は自分の中にある別の沈黙に気づき始めていた。
世界障害の記録は進む。
深層権限の準備も進む。
王都周辺の揺れは収まりきらず、外縁の小都市では相変わらず記録の遅延や空間認識の乱れが散発する。
保守室は分裂したまま、それでも動いている。
延命を優先する者、深層へ踏み込む覚悟を固めつつある者、両方必要だと知って疲れている者。
そのどれも本物だった。
翔太も、表向きには前より落ち着いて見えたかもしれない。
実際、障害の切り分けや報告整理では以前より手が速くなっていた。
ミレイアの意図を読むのも、グランツの補修の癖を逆算するのも、サナが拾った違和感を記録系のどこへ繋げるか考えるのも、身体のほうが覚え始めている。
だがその一方で、自分の内側には、まだ言葉にしていないものがあった。
帰れなくなること。
記憶が削れること。
人が先に壊れること。
どれも怖い。
でも本当は、それだけではない。
もっと醜くて、もっと個人的な恐怖が、自分の底にずっとある気がしていた。
それをはっきり自覚したのは、保守室で一枚の報告書をまとめている最中だった。
内容は、北西外縁の小さな補助都市で起きた軽微障害の整理。
被害は小さい。
記録の一部遅延、結界値の一時的揺れ、住民の短時間の方向感覚混線。
保守室としては“急ぎだが最優先ではない”種類の案件だった。
それでも翔太は、その報告書を書きながら妙に苛立っていた。
理由は単純だった。
この障害の構造が、自分にはあまりにも見えやすかったからだ。
入力系の遅延と補助式の継ぎ足し位置の競合。
深層の揺れが中継板へ跳ね返っている。
構造だけなら、たぶんすぐ書ける。
でも上へ出す正式版では、その危険を薄めた言葉にしなければならない。
世界基盤障害とも、設計偏りとも書けない。
“局所的な広域同期不整合の可能性”みたいな鈍い表現へ落とし込むしかない。
その作業の最中、翔太はふと、自分が何に苛立っているのかを理解した。
世界が壊れているからではない。
人が死ぬからでもない。
もちろんそれもある。
でも、もっと手前で、自分はこう思ってしまっていた。
俺なら、もっと早く見つけられるのに。
その瞬間、喉の奥がひどく乾いた。
紙の上の文字が急に嫌なものになる。
人を救いたい、世界を直したい、そういう言葉の下に、自分のもっと露悪的な本音が顔を出した。
役に立ちたい。
必要とされたい。
自分だけが見つけられるものを見つけて、自分だけが解ける問題を解いていたい。
そうでないと、自分が空っぽになる気がする。
「……最悪だな」
思わず呟くと、近くで記録板を整理していたサナが顔を上げた。
「何がですか」
「いや、独り言」
それ以上は言えない。
言えば、あまりに身も蓋もない。
自分が世界を救いたいのではなく、役に立たない人間になるのが怖いだけなのだと認めることになる。
その晩、翔太は木村のログを書いた頁の前に、ずいぶん長く座っていた。
木村はなぜ、あんな言葉を残したのだろう。
高瀬に似た誰かは、なぜ世界をまたいでまで注釈を残そうとしたのだろう。
それはきっと、ただ自分の有能さを証明したかったからではない。
少なくとも、そう信じたい。
だが、自分はどうか。
フェインで結界を持たせようとしたとき。
旧門の歪みの向こうにオフィスの光を見たとき。
境界の雨の構造を最初に読み取ったとき。
そのどの瞬間にも、“自分だけが見えている”ことへの奇妙な高揚が混じっていたのではないか。
それが本当なら、深層へ入る資格なんてないのかもしれない。
世界を直すとか、優先順位を変えるとか、そんな言葉の前に、自分はまず“役に立たない人間になるのが怖い十九歳”でしかない。
翌日、翔太は珍しく自分からミレイアを呼び止めた。
神殿西棟の、ひと気のない外回廊。
冬に近づく風が石壁を撫でて、空気は少し乾いていた。
「相談って柄じゃないんですけど」
前置きすると、ミレイアは外套の襟元を押さえながら言った。
「相談って、柄でやるものじゃない」
その返しに少しだけ救われる。
翔太は手すりの向こうの曇った空を見ながら、ゆっくり口を開いた。
「俺、たぶん勘違いしてました」
「何を」
「自分がこの世界を直したい理由です」
ミレイアは急かさなかった。
そこがありがたかった。
「人が死ぬのが嫌だとか、壊れてるのを放っておけないとか、そういうのも本当だと思います。でも……たぶん一番底にあるのは、それだけじゃない」
風の音が少し強くなる。
「役に立たない人間になるのが、怖いんです」
言った瞬間、ひどくみじめな気持ちになった。
世界障害だの深層権限だのという大きな話の最中に、出てきたのがそんな個人的な欠落だ。
だが、それが本当だった。
「向こうの世界でも、そうだった」
翔太は続ける。
「専門学校出て、会社入って、木村さんみたいな人がいて、ようやく“ここにいていいかもしれない”って思えた。エラーを解ける、自分の書いたコードが残る、レビューを通る。そういうのでしか、自分の輪郭を持てなかった」
ミレイアは黙ったままだった。
否定も、安い慰めもない。
その沈黙の中で、翔太はさらに言葉を継いだ。
「だからこの世界でも、自分だけが見つけられるものがあると、少し安心してる。たぶん、世界を救うためじゃなく、自分が空っぽじゃないって思いたいだけなんです」
言い切ったあと、妙に呼吸が楽になった。
痛いものを抜いたあとみたいな楽さだった。
同時に、どうしようもなく情けなかった。
しばらくして、ミレイアが言った。
「それの何が問題なの」
翔太は振り向いた。
「いや、問題でしょう。もっと高い理由で動くべきっていうか」
「誰が決めたの」
彼女の声は平坦だった。
「世界を直す人間は、最初から立派な理由しか持っちゃいけないって?」
翔太は答えられない。
ミレイアは手すりへ片肘をつき、少しだけ遠くを見た。
「私だって、最初は大義じゃなかった」
「え」
「弟が死んだのが嫌だった。村が切り捨てられるのが嫌だった。祈れって言うだけの連中が嫌いだった。そんなの、ずいぶん小さい怒りよ」
「でも、それは……」
「個人的すぎる?」
ミレイアは少しだけ笑った。
「世界を動かす理由なんて、だいたい個人的なところから始まる」
その言葉は、翔太の予想していた慰めとは少し違った。
もっと冷たい。
でも、だからこそ本物だった。
「問題は理由の綺麗さじゃない」
彼女は言う。
「その理由で、他人をどこまで踏みつけるか。自分の欠落を言い訳にして、誰かを道具にするかどうか。そこが分かれていく」
翔太は黙って聞いていた。
役に立ちたい。
必要とされたい。
その欲望そのものは消えない。
でも、それを持っていることと、それだけで他人を踏みつけることは同じではない。
たぶん、そういうことなのだ。
「怖いなら、覚えておけばいい」
ミレイアが言った。
「あなたは世界を直したい聖人じゃない。役に立たない人間になるのが怖い、十九歳の技術屋よ。そこを忘れなければ、少なくとも自分を神話にしなくて済む」
十九歳の技術屋。
その言い方が、妙にちょうどよかった。
勇者でも救世主でもなく、ただそれだけ。
その夜、翔太はノートへ一行書いた。
本当の恐怖は、死でも帰還失敗でもなく、“役に立たない自分”になること。
それを知ったうえで、なお何を選ぶか。
それは答えではなかった。
でも、やっと自分の足元の地面を見た気がした。




