第三十九話 木村のログ
深層に入るかどうかの議論が続くなかで、翔太は向こう側の記憶を繋ぎ止めるため、自分のノートだけでなく古い注釈や記録の断片も改めて見直していた。
木村に似た言い回し。
高瀬に近い署名。
戦時改修の注釈。
括弧。
門。
受け側確認。
成功扱いにするな。
すべてが別々の時代と場所に散っているのに、妙に同じ手触りを持っている。
その夜、資料室で古板の写しを整理していたときだった。
エルドが「これも見ておけ」と言って、ひどく小さな断片板を一枚差し出してきた。
欠けている。
四分の一ほどしか残っていない。
だが、注釈の末尾に見覚えのある短い記号があった。
「これ……」
翔太が息を止める。
「また“タカセ”に近い署名じゃな」
エルドが言う。
翔太は板を机へ置き、光の角度を変えながら読む。
記述自体は深層接続の注意書きらしい。
そのなかに、たった二行だけ、妙に現代的な注釈が混じっていた。
接続者は、向こう側の世界を忘れ始める。
忘れたと思う前に、誰かへ渡せ。
その一文を見た瞬間、翔太の背中に冷たいものが走った。
これはもう、木村に似ているどころではなかった。
木村が言いそう、ではない。
木村が実際に知っていた可能性のある種類の言葉だ。
「誰かへ渡せ……」
思わず繰り返すと、エルドが聞いた。
「何か心当たりがあるのか」
翔太は少し迷ってから、自分のノートを開いた。
向こう側の記憶の頁。
木村のこと。
高瀬のこと。
会社の古い共通部品に残されたコメント。
ここではじめて、エルドへもう少し詳しく話した。
東京の会社。
古いコード。
消えるログ。
高瀬という消えた人。
木村の「戻れ」。
そして、自分が転移直前に見た open_gate() に近いもの。
エルドは思ったより驚かなかった。
むしろ、長く黙ってから低く言った。
「すると、高瀬という名は向こうにもあったのかもしれぬ」
「同一人物なんでしょうか」
「わからぬ。じゃが、同じ署名がこちらと向こうに痕跡を残したなら、少なくとも“記述を渡した者”はいた」
記述を渡した者。
その言い方は妙にしっくりきた。
世界をまたいで、完全な帰還はできなくても、文章だけが渡る。
注釈だけが残る。
未来の他人へ向けた文章が、文字通り世界を超える。
翔太はふと、会社の夜のことを思い出した。
木村が紙コップを置きながら言った。
壊れても、直すのをやめない人。
もし木村が、自分より前に同じ痕跡を読んでいたのだとしたら。
あの言葉はただの仕事論ではなかったのかもしれない。
向こう側にも、こちら側にも、同じように壊れたものの前へ座った人間がいた。
その引き継ぎを、木村はうっすらと受け取っていたのかもしれない。
そのとき、断片板の裏面に薄い刻線があることへ気づいた。
裏返して光を当てる。
本当に薄い。
見落としていてもおかしくない程度。
だが、翔太には読めた。
戻れるうちに戻れ。
戻れなくなるなら、残る側へ書け。
喉の奥が詰まる。
これは警告であり、引き継ぎであり、遺言に近かった。
“戻れ”という言葉を、翔太は二つの意味で何度も受け取ってきた。
今、その意味がようやく重なり始める。
「木村さんは……」
自分でも、何を言おうとしたのかわからない。
知っていたのか。
ここへ来ていたのか。
高瀬の痕跡を向こうで拾っただけなのか。
問いはたくさんあるのに、どれも今は確かめようがない。
エルドは静かに言った。
「答えは後でもよい。大事なのは、渡す意思がずっとあったということじゃ」
その言葉に、翔太はしばらく何も返せなかった。
渡す意思。
未来の他人へ。
世界をまたいで。
それは職業の倫理に近い。
自分がいなくなっても、次に読む誰かが少しでも困らないようにする。
ただそのためだけに残された一行。
保守室へ戻ると、皆はまだ起きていた。
グランツが工具を片付け、サナが監視盤の写しを整理し、ミレイアが深層権限の条件を再確認している。
レオンは地脈図を前に黙っている。
誰も勇者ではない。
だが、誰も逃げてもいない。
翔太は机へ座り、自分の記録ノートへ新しい頁を開いた。
見出しを書く。
木村のログ
それから、断片板に残されていた文を書き写す。
接続者は、向こう側の世界を忘れ始める。
忘れたと思う前に、誰かへ渡せ。
戻れるうちに戻れ。
戻れなくなるなら、残る側へ書け。
書いているうちに、妙な静けさが胸の中へ降りてきた。
答えはまだない。
木村が何を知っていたのかも、高瀬がどこへ消えたのかもわからない。
だが、少なくともひとつだけ確かになったことがある。
自分はいま、文章を渡される側であり、同時に次に渡す側にもなり始めている。
その認識は、少し怖かった。
けれど、逃げ道のない怖さではなかった。
むしろ、仕事の輪郭に近い怖さだった。
ノートの最後に、翔太は自分の言葉を一行だけ足した。
木村へ。
まだ全部は忘れていません。
だから、もう少しこちらで書きます。
書き終えたあと、彼は初めて、その頁を閉じるときの手の震えが少しだけ収まっていることに気づいた。




