第三十八話 保守室、分裂
深層権限の存在が明らかになってから、保守室の中には静かな亀裂が走り始めていた。
誰も声を荒げて争うわけではない。
皆、世界障害の深刻さは理解している。
フェインの喪失も、魔法戦争ログの意味も、魔法戦争以降ずっと非常運用が続いてきたことも知っている。
問題は、そのうえで何を選ぶかだった。
深層へ触れるべきか。
通常の保守権限で持たせ続けるべきか。
世界の偏った仕様に手を入れるのか。
それとも、崩れを遅らせるだけに留めるのか。
最初にはっきり口にしたのはグランツだった。
「今のままでも、まだ延命はできる」
保守室の中央机。
夜番に入る前の短い打ち合わせの最中だった。
ミレイアが深層権限の鍵構造を整理し、翔太が識別摩耗の断片を読み返しているときに、グランツが工具の手を止めて言った。
「全部を変えるなんて話になると、保守じゃなくなる。世界の再設計だ。そんなことを、いまの人数でやれると思うか」
誰もすぐには答えなかった。
グランツの言うことは、感情論ではなく現場感覚としてもっともだった。
保守と再設計は違う。
前者は崩れを抑える仕事で、後者は責任の桁が変わる。
ミレイアが静かに言う。
「延命だけなら、いつまで持つと思う?」
「長くて数年。下手すりゃ数ヶ月」
グランツは即答した。
「でもその数ヶ月で、外縁の避難線を増やし、転移系の負荷を分散し、人の死ぬ速度を遅らせることはできる」
翔太はその言葉に反論できなかった。
フェインのことを思い出す。
深層設計を直す大義のために、目の前の街をいくつ失うのか。
グランツはたぶん、その数え方を知っている。
一方で、エルドは違う角度から見ていた。
「延命とは聞こえがよい」
彼は古板の束を閉じながら言った。
「じゃが、偏った仕様を知ったうえで“とりあえず持たせる”を続ければ、それは結局、過去の連中と同じことになる」
グランツが顔をしかめる。
「理屈はそうだ。だが深層へ触れば、人の側が先に壊れるかもしれん。ショウタも、ミレイアも、俺たちもな」
それもまた否定できない。
サナの盤面凝視。
自分の記憶の摩耗。
深層はただ高い権限をくれるだけではない。
触れる側の人間に代償を要求する。
サナは二人のやり取りを不安そうに見ていた。
レオンは黙っていたが、地図上の外縁線を指でなぞっている。
彼にとっては、深層の理念より、明日の巡回路でどこが落ちるかのほうが先に迫っているのだろう。
「私は……」
サナが小さく口を開いた。
全員がそちらを見る。
「深層が怖いです」
正直な声だった。
飾りも強がりもない。
「でも、怖いから触らないって決めて、その間に別の街がフェインみたいになるのも嫌です」
その言葉が、保守室の空気に別の重さを足した。
理論でも勇気でもない。
ただ若い現場の人間が、自分の恐怖と仕事の必要のあいだで言葉を探した結果だった。
レオンがそこで初めて口を開いた。
「外縁だけ見れば、延命で稼げる時間はある。だが長くない」
低い声で、地図から目を離さずに続ける。
「王都周辺の線を多少組み替えても、地脈の脈動そのものが荒れてきてる。設計の偏りを放置したまま外側だけ支えるのは、土台のずれた橋を何度も板で補うようなものだ」
ミレイアが短くうなずいた。
「つまり」
「どっちも要る」
レオンは言った。
「すぐ死ぬ場所を延命しながら、深層へ入る準備をするしかない」
それは折衷案に見えた。
だが実際には一番きつい。
延命の負荷も深層準備の負荷も、両方引き受けることになるからだ。
グランツが笑った。
疲れている人間の笑いだった。
「結局、一番しんどいやつに決まるんだよな」
誰も否定しなかった。
その日の深夜、議論は再び持ち上がった。
今度はもっと個人的な地点で。
ミレイアが深層権限の前提条件として、自分と翔太の同時接続が必要かもしれないと口にしたとき、グランツが露骨に顔を曇らせたのだ。
「お前まで入るのか」
ミレイアは平然と答える。
「運用責任者がいないと開けない」
「代われるやつを立てろ」
「いない」
「作れ」
その短い応酬に、ただの方針の違い以上のものが混じる。
グランツは深層権限そのものが怖いのではない。
ミレイアをそこへ行かせたくないのだと、翔太にはわかった。
「私が行かないで誰が行くの」
ミレイアの声は低い。
怒っているようでいて、実際にはひどく冷静だった。
「運用順も、偏りの位置も、一番見てきたのは私よ」
「だからだよ」
グランツの声が珍しく強くなる。
「お前まで壊れたら、この部屋は持たない」
保守室の空気が凍る。
サナが息を止め、レオンは視線を落とす。
エルドだけが静かに二人を見ていた。
ミレイアは数秒黙ってから言った。
「それでも行く」
その一言は、決意というより確認だった。
自分の役割を再確認している声。
グランツはそれ以上何も言わなかった。
だが、その黙り方は完全な了承ではない。
保守室はその夜、音のない形で分裂した。
延命を優先したい者。
深層へ踏み込むべきだと考える者。
あるいは、両方必要だと知りながら、どちらの代償も引き受けたくない者。
皆が同じ問題を見ているのに、選びたい順序が違う。
その夜遅く、翔太はひとりで記録机に座っていた。
木村のことを書いた頁のすぐあとに、新しい見出しを作る。
深層に入るか、延命を続けるか。
ペンを持つ手が少しだけ止まる。
この問いは、技術方針ではなく、誰をどの順番で傷つけるかの選択でもある。
彼は書いた。
延命だけでは、偏った世界を長持ちさせることになる。
だが深層に触れれば、直す側から壊れるかもしれない。
正しさと持続性が、同じ側にいない。
書き終えても答えは出なかった。
ただ、保守室の分裂は失敗ではないとも思った。
本当に危ない選択の前では、まとまりすぎた組織のほうがむしろ怖い。
迷いと反発があること自体は、まだ人間が考えている証拠なのかもしれない。




