第三十七話 現実の記憶
記憶の摩耗は、ある日突然すべてが消える形では来なかった。
最初は、ほんの小さなずれだった。
思い出そうとすると、一拍遅れる。
顔は浮かぶのに、名前が先に出てこない。
会話の内容は覚えているのに、そのとき窓の外が晴れていたのか曇っていたのかだけが抜ける。
そんな程度の、疲れのせいでも説明できるような欠け方だった。
だから最初のうちは、翔太も本気では疑わなかった。
深層権限の話を聞いたあとで、余計に神経質になっているだけかもしれないと思った。
世界障害の深い構造に触れ、自分が基盤接続者かもしれないと言われ、フェインでは人が死んだ。
そんな状況で記憶の輪郭が少しぼやけるのは、別に不自然ではない。
だが、不自然さはいつも“説明できる範囲”の顔をして近づいてくる。
ある夜、保守室で一人、旧門周辺の監視記録を整理していたときだった。
翔太はふと、木村が普段どちらの手で紙コップを持っていたか思い出そうとして、できなかった。
右だったか。
左だったか。
そもそも、木村は紙コップの縁を指で押さえる癖があっただろうか。
コーヒーの匂いは思い出せる。
疲れた夕方の、少し酸味の強い匂い。
だが、その匂いを運んでいた手の動きだけが曖昧になる。
「……何だ、それ」
思わず声が出た。
ただの些細なことだ。
そんなことを忘れたからといって、何が壊れるわけでもない。
だが、問題は“些細なことだから忘れてもいい”では済まないところにあった。
木村は、この世界へ来る前の自分を繋いでいる、数少ない輪郭のひとつなのだ。
その輪郭が削れるのは、単なる物忘れではなく、帰る側の自分が少し薄くなっている感じに近かった。
翌朝、翔太は思い立って、自分の記録ノートの後ろに「向こう側の記憶」という見出しを作った。
専門学校時代のこと。
入社初日。
木村の言葉。
久保田の笑い方。
田中の眠そうな顔。
秋山の声。
東京の通勤電車の匂い。
アパートの狭い机。
夜更けのコンビニの明かり。
思い出せる限り書く。
文字にして残す。
未来の自分が読めるように。
その作業は、どこかで見たことのある種類のバックアップだった。
「何書いてるの」
気づくと、サナが後ろに立っていた。
彼女はフェインの件以降、少しずつ監視盤へ戻り始めていたが、以前より無理をしないようミレイアに強く言い渡されているらしい。
「昔のことです」
「報告書じゃないのね」
「自分用の記録です」
そう言うと、サナは少しだけ首を傾げた。
「大事なこと?」
翔太は答えに迷った。
大事、という言葉では少し足りない気がした。
だがほかに適切な言い方も見つからない。
「……消えたら困ることです」
サナはそれ以上聞かなかった。
ただ小さく頷いて、自分の机へ戻っていった。
この世界では、“消えたら困ることを記録する”の意味を、たぶん皆が前より深く理解している。
その日の午後、エルドが深層権限記録の断片を持ってきた。
識別摩耗に関する古代語の補足らしい。
翔太は読む前から嫌な予感がしていた。
接続者は基盤へ近づくほど、外部識別子を摩耗させる。
摩耗は急激ではなく、まず周縁記憶より始まる。
固有感情に伴う記録を保持せよ。
「周縁記憶……」
翔太が呟くと、エルドが言う。
「中心に近い記憶は残りやすいが、輪郭を支える細部から削れる、という意味じゃろう」
木村の手。
紙コップの持ち方。
通勤電車の窓の曇り方。
アパートの机の傷。
そういう“細部”から先に薄くなる。
それはひどく納得のいく説明で、だからこそ怖かった。
ミレイアが紙片を覗き込む。
「感情に伴う記録を保持せよ、って」
「理屈だけで残した記憶より、感情のひっかかりと結びついているもののほうが摩耗しにくいのかもしれん」
エルドは言う。
「古代の接続者も、同じように薄れていったのじゃろう」
その夜、翔太は向こう側の記憶をもう一度書き直した。
今度は出来事ではなく、そのとき何を感じたかも書く。
研修初日、喉元のネクタイが首輪みたいだったこと。
エラーが壁に見えたこと。
木村の「未来の他人」という言葉に、妙に救われたこと。
夜のオフィスで本番障害の気配を見て、静かな怖さを覚えたこと。
高瀬のことを聞いた朝、会議室の光がひどく白かったこと。
感情まで書こうとすると、思い出すのが少しだけ楽になる。
輪郭が戻るわけではない。
だが、薄くなった記憶の内側へ、まだ熱の残っている部分があるとわかる。
「向こうの人のこと、好きだったのね」
後ろから声がして、翔太は驚いて振り向いた。
ミレイアだった。
いつからそこにいたのかわからない。
「木村って人」
翔太は少し黙って、それから苦笑した。
「好き、とは違うかもしれません。でも……たぶん、信じてたんだと思います」
ミレイアは机の端に寄りかかり、しばらく黙っていた。
「記憶が薄れるの、怖い?」
問いは静かだった。
慰めるための柔らかさではなく、ただ確認のための静かさ。
「怖いです」
今回は迷わず答えられた。
「帰れなくなることより、向こう側の自分が、ちゃんと向こう側の人間だったって証拠が薄くなるのが」
ミレイアは小さく頷く。
「それなら、書きなさい」
彼女はそれだけ言った。
「報告書と同じ。残る形にしておけば、全部は消えない」
その言い方に、翔太は少しだけ息が楽になった。
結局、自分にできることはそこへ戻る。
残すこと。
読むこと。
未来の他人へ渡せる形にしておくこと。
その晩のノートの最後に、翔太は一行だけ書いた。
木村は右手で紙コップを持っていた気がする。
違うかもしれない。だから今のうちに書く。
その一文は小さかった。
けれど、失いたくない輪郭への抵抗としては十分に切実だった。




