第三十六話 管理者権限
フェインの件から三日後、エルドが保守室の中央机へ古い金属箱を持ってきた。
普段なら棚の奥から板を一枚ずつ出してくる彼が、わざわざ箱ごと持ち込むのは珍しい。
箱は両手で抱えるほどの大きさで、表面に複雑な封印刻線が走っている。
ひび割れはないが、古い金属特有の鈍いくすみがある。
「何ですか、それ」
サナが聞くと、エルドは机へそっと置いた。
「魔法戦争期の深層権限記録じゃ」
保守室が一瞬静まり返る。
深層権限。
その言葉には、最近ではもう皆が同じ重さを感じるようになっていた。
世界基盤の奥。
設計の偏りが埋め込まれた場所。
通常の保守では触れられない層。
「そんなものが残ってたんですか」
ミレイアが低く聞く。
「残っていた、というより、封じられておった」
エルドは箱の封印線を指した。
「戦後、平時復帰手順が未完のまま止まり、深層権限の記述は一部が禁書扱いになった。理由は単純じゃ。触れれば、設計そのものを変えられるから」
グランツが眉を上げる。
「つまり、神殿上が一番見られたくないやつか」
「その通り」
エルドは苦い顔で言う。
「じゃが、封蔵庫の戦時記録を洗っていくうち、鍵の系統が一部つながった。完全ではないが、開けられるかもしれん」
その場の誰も、すぐには喜ばなかった。
深層権限がある。
それは希望に見える。
同時に、触れた時点で引き返せなくなる入口でもある。
翔太は箱を見つめた。
フェインの喪失がまだ身体から抜けていない。
人が先に壊れ、人が先に死ぬ。
その現実を見たあとで“設計そのものを変える権限”が目の前へ出てくるのは、出来すぎていて逆に怖かった。
「開ける条件は」
ミレイアが聞く。
「権限記述の読解者、運用責任者、基盤接続者、三つの立場が要る」
エルドが一つずつ数える。
「読解はわし。運用責任はおぬし。基盤接続者は……」
そこで彼の視線が翔太へ向く。
誰も口にしていなかったことを、言葉がようやく追いついた。
「外部思考要員である可能性が高い」
サナが息を呑む。
グランツは何も言わない。
だが顔には“やっぱりそうか”という色がある。
翔太は箱から目を離せなかった。
自分が必要だという話は、もう何度も聞いている。
だが今度は重さが違う。
深層権限。
世界法則の優先順位そのものに触れる可能性。
もし本当にそれが使えるなら、フェインみたいな街を次は守れるかもしれない。
だが同時に、帰還条件の話も頭をよぎる。
深く触れるほど、自分は向こう側から薄くなる。
「代償は」
気づくと、そう聞いていた。
エルドが静かに答える。
「はっきりとは分からぬ。じゃが深層権限記録には、“基盤接続者の識別摩耗”について触れた断片がある」
識別摩耗。
帰還識別子の減衰と、ほとんど同じ響きだった。
ミレイアが低く言う。
「つまり、深層へ入るほど戻れなくなる可能性が高い」
「その通りじゃろう」
エルドは否定しない。
「さらに、深層は人の認識に優しくない。普通の術官が直接読めば、盤面に呑まれるどころでは済まぬかもしれん」
サナが青ざめた顔になる。
フェインの件のあとだ。
保守室の人間はもう、“認識が壊れる”という言葉を抽象的には受け取れない。
ミレイアは箱を見たまま言った。
「今すぐ開ける必要は?」
エルドは少し考えた。
「今すぐでなくともよい。じゃが時間は多くない。世界障害が進めば、通常権限で触れられる範囲はどんどん狭まる。いずれ深層を見ないと、何を優先して守るかすら選べなくなる」
それは、ほとんど最終手段の提示だった。
「管理者権限ってわけか」
グランツがぼそりと言う。
翔太はその言葉に少しだけ反応した。
現実のシステムで言えば、root権限。
何でもできる。
だからこそ、触る人間も触り方も強く制限される。
しかも今、相手にしているのは一台のサーバでも一つのサービスでもない。
世界そのものだ。
その日の夕方、ミレイアは翔太を保守室の端へ呼んだ。
監視盤の光が届きにくい、小さな記録机のそばだった。
「選択肢として、知っておいて」
彼女の声はいつもより少し柔らかかった。
柔らかいからこそ、かえって重い。
「深層権限に触れれば、フェインみたいな場所の優先順位を変えられるかもしれない。中枢偏重の保護順を、少しだけでもずらせるかもしれない」
「でも、戻れなくなるかもしれない」
「そう」
彼女はそれを曖昧にしなかった。
「だから、まだ決めなくていい。今すぐじゃない」
翔太は金属箱のほうを見た。
あれを開ければ、物語はもう別の段階へ入る。
小さな障害の切り分けではなく、世界の根幹へ手を入れる話になる。
そしてたぶん、自分もそれまでの自分ではいられなくなる。
「木村さんなら、どう言うかな」
思わず漏れた言葉に、ミレイアが聞き返す。
「その先輩?」
「たぶん、“触るなら戻せる形で触れ”って言うと思います」
言いながら、翔太は少しだけ笑った。
木村は何かを壊すことより、戻せなくなることを一番嫌う人だった。
「なら、先に戻し方を考える」
ミレイアは静かに言う。
「世界でも、自分でも」
その言葉は救いではない。
でも、ただ踏み込むだけではないという合図にはなった。
その夜、翔太は記録ノートへ新しい頁を開いた。
題名を書く。
深層権限(管理者権限)仮整理
その文字を書いた瞬間、手がわずかに止まる。
世界を直す話が、ついに本当に始まろうとしている。
だがそれは同時に、自分が帰る道を細らせる話でもある。
彼はその下に、さらに一行だけ書き足した。
触れれば変えられるかもしれない。
だが、変えられるものの中に“自分”も含まれてしまうかもしれない。
書き終えたあと、しばらく頁を閉じられなかった。
金属箱は部屋の中央で静かに置かれたまま、まだ誰にも開かれていない。
それなのにもう、保守室全体の重心がそちらへ少しずつ傾き始めている気がした。




