第三十五話 最初の喪失
最初の喪失は、大都市ではなく、王都北西の小さな中継都市フェインで起きた。
フェインは外縁の物流拠点で、大きな街ではない。
だが北方と王都を結ぶ補給路の要所にあり、外周結界と記録中継板の両方を抱えている。
保守室が以前から“危ない”と分類していた地点のひとつでもあった。
中枢優先の保護順では後ろへ回されやすく、それでいて物流の都合上、負荷だけは高い。
壊れ方が悪ければ、人も記録も同時に失う。
異常報告が入ったのは夕方だった。
外周結界の一部で維持率急落。
中継板の記録遅延。
住民の一部に短時間の位置認識錯誤。
保守室はすぐ動いた。
ミレイア、グランツ、翔太、レオン。
サナはまだ完全には戻していないので王都残留。
エルドは古記録からフェイン系統の補修履歴を洗うため残る。
現地到着までのあいだ、翔太は何度も監視値を確認した。
「持つと思いますか」
馬車の中で聞くと、ミレイアは数秒答えなかった。
「“今の情報だけなら”持たせる余地はある」
その言い方が、逆に嫌な予感を強めた。
今の情報だけなら。
つまり、現地へ着くまでに前提が変わる可能性が高いということだ。
フェインへ着いたとき、空はすでに暗くなっていた。
街の外周に走る結界光は、一見するとまだ残っている。
だが近づくと、膜の密度が場所ごとに違う。
薄いところでは夜気が妙に冷たい。
レオンが地脈観測板を見て即座に言った。
「流れが欠けてる。表面じゃなくて、柱間の底が抜けてる」
グランツが結界柱の金属帯を叩いて音を確かめる。
「柱自体はまだ死んでない。底の契約が剥がれてる」
翔太は中継板の記録庫へ走り、現地役人から履歴を受け取った。
帳票は乱れている。
時刻の順が一部飛び、外周見回りの報告に重複がある。
しかも“位置認識錯誤”とある住民報告が、実際にはもっとひどい。
帰宅途中の人間が、自分の家と隣家の境界を認識できなくなっていた。
街路の端と端が、数歩だけずれて感じられる。
境界そのものが揺れている。
「まずい」
思わず声が出る。
「結界だけじゃない。街の空間認識まで持ってかれてる」
ミレイアがすぐこちらへ来る。
履歴を見て顔色を変えた。
「中継板の遅延が原因じゃない」
「はい。結界の揺れと一緒に、街区境界の解釈も崩れてる」
レオンが外から叫ぶ。
「北西の柱間、あと一段落ちる!」
その瞬間、遠くで何かが割れるような音がした。
硝子ではない。
もっと大きな、膜の裂ける音に近い。
「外周へ!」
ミレイアが走り出し、全員が続く。
街の北西部では、結界膜の一部が目に見えて薄くなっていた。
住民たちが避難誘導されている。
だが逃げる方向が揺れている。
普段なら一本道の路地が、今は曲がって見える。
人が立ち止まり、進路を見失う。
「補助式入れる!」
グランツが金属環を結界柱へ打ち込み、ミレイアが補助線を流す。
レオンが地脈の残流を読み、翔太は柱間の契約図を頭の中で追う。
底が抜けている。
なら受け側の仮契約を短時間だけ橋渡しすれば、持つかもしれない。
「西側補助じゃなくて、北から回したほうがいい!」
翔太が叫ぶ。
ミレイアが即座に理解する。
「理由は」
「西は中継板の遅延と競合する。北なら流れがまだ細く残ってる!」
「グランツ!」
「分かった!」
補助環の位置が変わり、線が組み替えられる。
一瞬、結界膜の薄さが持ち直したように見えた。
住民の避難列も少しだけ動く。
いけるかもしれない。
翔太はそう思った。
本当に、そう思ってしまった。
その次の瞬間、街の北西端で鈍い閃光が走った。
明るいのに、温度のない光。
それが地面すれすれを走り、逃げ遅れていた二人の輪郭を飲み込む。
悲鳴が上がる。
音が一拍遅れて来る。
結界そのものではない。
境界のズレが、空間を噛み切ったみたいな光だった。
翔太の足が止まる。
二人は即死ではなかった。
だが一人はその場に崩れ、もう一人は自分の腕を見て動けなくなっていた。
腕はある。
だが“自分の腕として認識できていない”顔だった。
近くの兵士が抱えようとして、逆にバランスを崩す。
「下がらせろ!」
ミレイアの声が飛ぶ。
グランツが補助環を叩き込み、レオンが北流を押し込み、結界の裂け目が辛うじて閉じ始める。
現場はまだ動いている。
動かなければ、もっと死ぬ。
だから止まれない。
翔太も止まってはいけないとわかっていた。
わかっているのに、さっきまで“持つかもしれない”と思った自分の判断が、喉の奥で重く残る。
北から回せば助かる。
そう言った。
実際、全体の破断は避けられた。
だが、避難のほんの数秒が足りなかった。
結界を一時安定化させ、負傷者を治癒院へ送り、街がようやく呼吸を取り戻したのは夜明け近くだった。
犠牲者は二名。
負傷者が三。
位置認識の乱れた住民は十数名。
街全体の破断は防げた。
数字だけ見れば“最小限”かもしれない。
だがその最小限のなかに、確かに取り返しのつかない二人がいる。
帰りの馬車で、誰もほとんど喋らなかった。
グランツは工具箱に肘を置いたまま目を閉じ、レオンは窓の外しか見ていない。
ミレイアは報告書の骨子を頭の中で作っているのか、表情が固い。
翔太は自分の手を見ていた。
何もついていない。
それが余計に重い。
王都へ戻ったあと、保守室の隅でミレイアが静かに言った。
「あなたの判断は間違ってなかった」
翔太は首を振った。
「でも、助けきれなかった」
「それは別の話」
「別じゃないです」
思ったより強い声が出た。
保守室の空気が一瞬止まる。
「選んだ線の先で、人が死んだ。だったら別じゃない」
ミレイアは何も言い返さなかった。
言い返せないからではない。
たぶん、自分も何度も同じことを引き受けてきたからだ。
その日、翔太は記録ノートを開けなかった。
書けば“最小限の被害で収束”みたいな文にしなければならない気がした。
だが、その言葉のどこにも、あの閃光の手触りは残らない。
最初の喪失は、そうやって来た。
世界は壊れかけている。
それを直そうとしている。
でも、直す途中でも人は死ぬ。
その当たり前を、翔太はようやく身体で知った。




