↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コードの向こう側 改  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/46

第三十四話 人が壊れる速度

魔法戦争のログを読んでからというもの、保守室の空気は目に見えない重みを抱えたまま動くようになった。


誰も大声では語らない。

だが皆、それぞれの作業の端で、同じ事実を反芻しているのがわかる。

世界障害は自然現象ではない。

過去の非常運用が、誰かを切り捨てる前提のまま恒久化された結果だ。

つまり、いま壊れているのは“運が悪かった世界”ではなく、“そう壊れるように運用されてきた世界”なのだ。


その認識は、保守室の人間たちを強くもしたが、同時に消耗も早めた。


境界の雨は散発的に続き、ルサの記録基準板の余波はまだ消えず、南門の再現しない不具合も燻っている。

王都中枢の結界保持率は持ち直しているように見えて、深層値では不穏な揺れが残る。

やるべきことは多い。

だが本当に削られていくのは、術式でも結界でもなく、先に人間のほうだった。


最初に目に見える形で崩れたのはサナだった。


その日の午後、彼女は監視盤の控えを書き写している最中に、突然、手を止めた。

止めたというより、止まってしまった。

羽根筆を持ったまま、盤面と紙のあいだで視線が固定される。

最初は誰も気づかなかった。

監視室では、人が数秒黙ること自体は珍しくない。

だがその沈黙が長く続いたとき、ミレイアが顔を上げた。


「サナ?」


返事がない。


翔太が近づくと、サナの唇がかすかに動いていた。

何かを読んでいる。

だが読み上げているのは監視盤の数値ではなく、盤面の奥に見えている別の何かだった。


「……戻れない。いや、違う。違う、これ……」


声が細い。

焦点の合わない目で盤面を見つめている。


「サナ、目を離して」


ミレイアがすぐそばへ来る。

だがサナは視線を切れない。

翔太はその顔を見て、ぞっとした。

怖がっているのに、見続けてしまっている顔だ。

ログに呑まれかけたあの夜の自分と、どこか似ていた。


エルドが奥から駆け寄り、古板を閉じるときのような手つきで監視盤の副照度を落とした。

盤面の光が弱まり、サナの瞳がようやく一度だけ揺れる。


「水を」


ミレイアが言い、翔太がすぐ汲みに走る。

戻ると、サナは椅子へ座らされ、肩で息をしていた。

目は戻っている。

だが戻ったことで、今度は自分が何をしていたのかを理解してしまった顔だった。


「ごめんなさい」


最初の言葉がそれだった。


「何か、盤面の奥に文字が……私、読めないのに、読める気がして……」


「もういい」


ミレイアが言う。


「今日は下がって」


「でも夜番が」


「下がって」


その言い方は強かったが、怒りではない。

これ以上ここへ置くわけにいかないと知っている人間の声だった。


サナが退出したあと、しばらく誰も何も言わなかった。

監視盤は相変わらず静かに揺れている。

だが、いまこの場で一番危うかったのは盤面ではなく、人間の側だった。


グランツが低く言う。


「始まったな」


「前から始まってた」


ミレイアが返す。


「見える人間と見えない人間の差だけで、負荷は全員に来てる」


その一言で、翔太は保守室全体を見回した。

エルドの目の下の影。

グランツの指先の細かな震え。

ミレイアの硬すぎる平静。

自分自身の、最近薄くなりつつある過去の輪郭。


世界障害は人を一気には壊さない。

少しずつ、しかし確実に、読む力、記憶、集中、睡眠、判断を削っていく。

それはバグというより、長時間運用で部品が摩耗する感じに近かった。


その夜、サナの代わりに翔太が監視盤の補助へ入ることになった。

盤面の光は昨日までと変わらない。

数値の揺れも、記号の流れも同じだ。

だが一度“人が壊れる瞬間”を見てしまうと、盤面の意味が変わる。

これはただの監視ではない。

見続けること自体が、少しずつ人間を削る作業なのだ。


「休ませないと持たない」


翔太が呟くと、ミレイアは盤面から目を離さずに答えた。


「わかってる。でも代わりがいない」


それが現実だった。

人手不足。

重要な系統に詳しい人間が少なすぎる。

しかも今は、深く見れば見るほど負荷が増す。

その構図は、会社の炎上案件と何も変わらない。

ただ、壊れる対象がコードの整合性だけでは済まないだけだ。


深夜、休憩用の苦い薬草湯を飲みながら、グランツがぽつりと言った。


「術式は後で直せる。結界も補修できる。だが、人間はひびの入り方が見えにくい」


翔太はその言葉をしばらく咀嚼した。

まさにそうだった。

コードはエラーを出す。

結界は揺れる。

だが人間は、昨日まで通り働きながら今日壊れる。

そこが一番厄介だった。


その晩の記録ノートに、翔太は短く書いた。


世界障害で先に壊れるのは、世界ではなく保守する側の人間かもしれない。


書き終えたあと、彼は自分の字が少しだけ乱れていることに気づいた。

疲れのせいだと思いたかった。

だが、それだけで済む保証も、もうなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。