第三十四話 人が壊れる速度
魔法戦争のログを読んでからというもの、保守室の空気は目に見えない重みを抱えたまま動くようになった。
誰も大声では語らない。
だが皆、それぞれの作業の端で、同じ事実を反芻しているのがわかる。
世界障害は自然現象ではない。
過去の非常運用が、誰かを切り捨てる前提のまま恒久化された結果だ。
つまり、いま壊れているのは“運が悪かった世界”ではなく、“そう壊れるように運用されてきた世界”なのだ。
その認識は、保守室の人間たちを強くもしたが、同時に消耗も早めた。
境界の雨は散発的に続き、ルサの記録基準板の余波はまだ消えず、南門の再現しない不具合も燻っている。
王都中枢の結界保持率は持ち直しているように見えて、深層値では不穏な揺れが残る。
やるべきことは多い。
だが本当に削られていくのは、術式でも結界でもなく、先に人間のほうだった。
最初に目に見える形で崩れたのはサナだった。
その日の午後、彼女は監視盤の控えを書き写している最中に、突然、手を止めた。
止めたというより、止まってしまった。
羽根筆を持ったまま、盤面と紙のあいだで視線が固定される。
最初は誰も気づかなかった。
監視室では、人が数秒黙ること自体は珍しくない。
だがその沈黙が長く続いたとき、ミレイアが顔を上げた。
「サナ?」
返事がない。
翔太が近づくと、サナの唇がかすかに動いていた。
何かを読んでいる。
だが読み上げているのは監視盤の数値ではなく、盤面の奥に見えている別の何かだった。
「……戻れない。いや、違う。違う、これ……」
声が細い。
焦点の合わない目で盤面を見つめている。
「サナ、目を離して」
ミレイアがすぐそばへ来る。
だがサナは視線を切れない。
翔太はその顔を見て、ぞっとした。
怖がっているのに、見続けてしまっている顔だ。
ログに呑まれかけたあの夜の自分と、どこか似ていた。
エルドが奥から駆け寄り、古板を閉じるときのような手つきで監視盤の副照度を落とした。
盤面の光が弱まり、サナの瞳がようやく一度だけ揺れる。
「水を」
ミレイアが言い、翔太がすぐ汲みに走る。
戻ると、サナは椅子へ座らされ、肩で息をしていた。
目は戻っている。
だが戻ったことで、今度は自分が何をしていたのかを理解してしまった顔だった。
「ごめんなさい」
最初の言葉がそれだった。
「何か、盤面の奥に文字が……私、読めないのに、読める気がして……」
「もういい」
ミレイアが言う。
「今日は下がって」
「でも夜番が」
「下がって」
その言い方は強かったが、怒りではない。
これ以上ここへ置くわけにいかないと知っている人間の声だった。
サナが退出したあと、しばらく誰も何も言わなかった。
監視盤は相変わらず静かに揺れている。
だが、いまこの場で一番危うかったのは盤面ではなく、人間の側だった。
グランツが低く言う。
「始まったな」
「前から始まってた」
ミレイアが返す。
「見える人間と見えない人間の差だけで、負荷は全員に来てる」
その一言で、翔太は保守室全体を見回した。
エルドの目の下の影。
グランツの指先の細かな震え。
ミレイアの硬すぎる平静。
自分自身の、最近薄くなりつつある過去の輪郭。
世界障害は人を一気には壊さない。
少しずつ、しかし確実に、読む力、記憶、集中、睡眠、判断を削っていく。
それはバグというより、長時間運用で部品が摩耗する感じに近かった。
その夜、サナの代わりに翔太が監視盤の補助へ入ることになった。
盤面の光は昨日までと変わらない。
数値の揺れも、記号の流れも同じだ。
だが一度“人が壊れる瞬間”を見てしまうと、盤面の意味が変わる。
これはただの監視ではない。
見続けること自体が、少しずつ人間を削る作業なのだ。
「休ませないと持たない」
翔太が呟くと、ミレイアは盤面から目を離さずに答えた。
「わかってる。でも代わりがいない」
それが現実だった。
人手不足。
重要な系統に詳しい人間が少なすぎる。
しかも今は、深く見れば見るほど負荷が増す。
その構図は、会社の炎上案件と何も変わらない。
ただ、壊れる対象がコードの整合性だけでは済まないだけだ。
深夜、休憩用の苦い薬草湯を飲みながら、グランツがぽつりと言った。
「術式は後で直せる。結界も補修できる。だが、人間はひびの入り方が見えにくい」
翔太はその言葉をしばらく咀嚼した。
まさにそうだった。
コードはエラーを出す。
結界は揺れる。
だが人間は、昨日まで通り働きながら今日壊れる。
そこが一番厄介だった。
その晩の記録ノートに、翔太は短く書いた。
世界障害で先に壊れるのは、世界ではなく保守する側の人間かもしれない。
書き終えたあと、彼は自分の字が少しだけ乱れていることに気づいた。
疲れのせいだと思いたかった。
だが、それだけで済む保証も、もうなかった。




