第三十三話 魔法戦争のログ
世界法則の偏りが仮説ではなく命令文の形で見え始めたとき、エルドは「もう一段深い記録を開けるべきじゃな」と言った。
保守室の皆が顔を上げる。
「まだ下があるんですか」
サナが聞くと、エルドは肩をすくめる。
「ある。じゃが、まともには残っておらぬ」
彼が指したのは、保守室の資料ではなく、神殿最奥の封蔵庫にあるという戦争期記録群だった。
“魔法戦争”と通称される時代。
今の世界基盤の多くが大規模改修された時代でもある。
戦争の記録は王国の都合で神話化され、英雄譚へ作り変えられてきた。
だが保守の目で見れば、そこにはおそらく、もっと露骨な改修の痕が残っている。
問題は、封蔵庫の閲覧許可が簡単には下りないことだった。
神殿上層は深層原因の追跡そのものを嫌っている。
ならば正面から申請しても無理だろう。
だがそこは、保守室の人間たちも現場で鍛えられている。
ミレイアは「正式には設備損耗履歴の確認」として申請し、セルヴァン率いる監査院が旧設備の管理経緯確認に興味を示していることを逆手に取った。
結果、限定時間・写し禁止・監視付きでの閲覧が認められた。
封蔵庫は神殿のさらに地下深く、礼拝区画の真下にあった。
重い扉。
金属鎖。
乾いた冷気。
そこへ足を踏み入れたとき、翔太は一瞬だけ会社の古いサーバ室を思い出した。
長く使われていないのに、重要だから切れない場所。
空気の質が、どこか似ていた。
閲覧が許された記録は三束。
戦時転移改修。
外縁結界再編。
民生術式の縮退運用。
どれも題名だけで嫌な予感がする。
「英雄譚じゃないな」
グランツが吐き捨てるように言う。
「英雄譚は別にある。ここにあるのは、その裏の実務じゃ」
エルドが返す。
翔太は最初の束を開いた。
古代語と戦時注記が混じり、ところどころに後代の検閲痕がある。
だが読み進めるうちに、断片の意味が少しずつ立ち上がった。
戦線維持のため、王都中枢結界へ資源再配分。
辺境補助式を一段縮退。
転移優先権を軍需路へ移管。
記録保持の簡略化、民間層は暫定保持で可。
「……ひどい」
サナが小さく言う。
翔太は二枚目を追った。
戦況悪化に応じて、結界や治癒や記録の優先順位が変えられている。
しかも一時措置として。
後で戻す前提。
だが、その“後”が来なかった。
「閉じ忘れた契約どころじゃない」
翔太は呟いた。
「世界全体を非常運用に切り替えたまま、戻さなかったんだ」
ミレイアが次の板をめくる手を止める。
「だから外縁はずっと薄いまま」
「戦争が終わっても、王都優先の保護順を維持したほうが統治は楽だったんでしょう」
翔太の声は自分でも嫌になるほど冷静だった。
だが、そうとしか読めない。
エルドが三束目を開く。
そこにはもっと直接的な文があった。
民間記憶保持の低精度化を許容。
中枢記録の整合を優先。
反乱・流言対策上、有効。
保守室の全員が黙る。
文字が読めないわけではない。
読めるから、黙るしかなかった。
「流言対策、だって?」
グランツの声に、怒りと disbelief が混じる。
「つまり、民間の記憶や記録の精度が落ちても、統治上は問題ないって設計したわけ?」
「問題ないどころか、有効と書いてある」
ミレイアの顔色が変わっていた。
いつも怒りを押し込めて平たくする彼女が、その押し込みを一瞬だけ失っている。
「最初からだ。最初から、辺境も民間も、揺れていい側として扱われてた」
その声の震えは小さい。
だが保守室にいる誰にでも十分聞こえた。
翔太は戦時改修の図面を見つめた。
世界障害は突然生まれた故障ではない。
魔法戦争という非常時に、統治と軍需を優先して世界法則そのものを書き換えた結果、その歪みが平時にまで居残っている。
そして今、その非常運用が限界を迎えて表面化している。
「ログだ」
気づくと口にしていた。
「これ全部、戦争の英雄譚じゃない。障害対応のログです」
エルドがゆっくり頷く。
「そう読める者が、おぬしくらいしかおらなんだ」
翔太は束の最後の注記へ目を落とした。
そこには検閲の削り痕をかいくぐって、かろうじて一行だけ残っていた。
平時復帰手順、未完。
暫定運用の恒久化を禁ず。
その一文に、木村の声がまた重なった。
後で戻すはずのもの。
戻されないまま本番で動き続けるもの。
未来の他人が泣くから、背景を残せ。
世界をまたいで、同じ忠告がそこにあった。
封蔵庫を出るころには、皆ほとんど口数を失っていた。
知ってしまったからだ。
世界障害は自然災害ではない。
この世界の支配者たちが過去に選んだ“合理”の後遺症だ。
神殿へ戻る階段の途中で、ミレイアが立ち止まった。
壁に手をつき、しばらく俯く。
翔太は声をかけるべきか迷った。
だが先に彼女が言った。
「弟の村が薄かったのも、偶然じゃなかった」
その一言に、誰も返せなかった。
「戦争が終わって何十年も、何百年も経って、もう理由も知らない連中が“そういうものだ”って顔で使い続けてた」
彼女は顔を上げた。
目は赤くなっていない。
泣かない人の怒りだった。
「直す」
それは誓いではなく、業務の確認みたいな声だった。
だが、その静かさのほうがむしろ恐ろしかった。
「全部は無理でも、これを知って黙るのは、もう共犯だから」
翔太は小さくうなずいた。
帰るかどうかとは別の線で、自分ももう後戻りできない場所へ来ている。
世界の欠陥を見てしまった。
しかも、それが人間の選択によって作られた欠陥だと知ってしまった。
その夜、翔太は記録ノートへ長く書き込んだ。
魔法戦争のログ。
平時復帰手順未完。
民間記憶保持低精度化。
王都中枢優先。
辺境縮退。
その文字列は、もはや単なる物語の材料ではなかった。
修復方針を決めるための、痛みを持った仕様書だった。
最後に、彼は欄外へ一行だけ足した。
世界は壊れたのではない。
壊れてもよい場所を決めて運用されてきた結果、いまその全体が限界に達している。
書いたあと、しばらくペンを置けなかった。
重かった。
だが同時に、ようやく本当の敵の輪郭が見えた気もした。




