第三十二話 ミレイアの怒り
その夜遅く、保守室には珍しく人が少なかった。
サナは監視盤の夜番に出ていて、グランツは南門施設の金属補修へ、レオンは外縁観測の夜間確認へ出ていた。
エルドは資料室の奥で、古板の照合に沈んでいる。
中央机に残っているのは、ミレイアと翔太だけだった。
机の上には、昼間に整理した世界基盤の優先順位図が広げられている。
中心へ行くほど太く、外へ行くほど細くなる保護線。
誰が先に守られ、誰が後回しになるかを可視化した図だ。
見れば見るほど、ただの技術資料には見えなくなる。
「気分が悪いですね」
翔太が言うと、ミレイアは紙を睨んだまま答えた。
「今さら?」
声音は平坦だった。
だが、その平坦さの奥にひどく強いものがあるのがわかる。
「いや……理屈では分かってました。王都優先とか、神殿優先とか。でも、こうやって“最初からその順で守るよう作ってある”って見えると」
「腹が立つ?」
翔太は少しだけ迷ってから頷いた。
「はい」
ミレイアは短く息を吐いた。
怒りを鎮めるためではなく、長く抱えてきたものを一度だけ表へ出す前の息だった。
「私はずっと腹が立ってる」
その言葉は、ほとんど独白だった。
「弟のいた村だけじゃない。北の集落も、東の開拓地も、外縁の鉱区も、だいたい同じ。結界が薄い。補助式は遅い。治癒院は遠い。神殿は“祈れ”と言う。でも王都で結界が一度揺れたら、その日のうちに何人も走る」
翔太は何も言わなかった。
彼女のこういう話を、途中で区切る言葉は思いつかなかった。
「昔は、それでも仕方ないと思おうとした」
ミレイアは続ける。
「人が足りない。資源も足りない。全部を守れないなら、中心から守るしかない。そういう理屈はわかる。わかるから、余計に嫌だった」
「わかるから?」
「仕方ない理屈って、いつも切られる側のほうが先に覚えるの」
その一言が、翔太の胸へ重く落ちた。
会社でも似た場面はあった。
人手が足りない。
納期が近い。
全部は救えない。
そういう“仕方なさ”を最初に飲み込むのは、たいてい一番下の側だ。
ミレイアは紙の上の細い線を指先でなぞった。
「でも、これは“仕方ない”の前の話」
その指は辺境補助式の線の薄い部分で止まる。
「ここまで偏ってるのは、単に余裕がなかったからじゃない。最初から、守る価値の順を決めてる」
「価値の順……」
「神殿、役所、転移路、記録。そこに入れない場所の人間は、平時は民として数えられても、異常時には後ろへ落とされる」
彼女はようやく翔太を見た。
「世界が壊れて初めて露わになるんじゃない。壊れたときに、いつもそうしてたことが見えるだけ」
翔太は視線を落とした。
技術の話だと思っていたものが、ずっと政治であり、倫理であり、暴力でもあったことを、ここへ来て改めて思い知らされる。
「……直せると思いますか」
問うと、ミレイアは即答しなかった。
怒っている人間ほど、安い希望を口にしない。
「全部は無理」
しばらくして、彼女は言った。
「でも、“どこを先に守るか”の順を少し変えるだけでも、死ぬはずだった場所が持つことはある」
その言葉に、翔太ははっとした。
世界を完全に作り直すのではない。
優先順位をずらす。
例外処理を変える。
保護の順番を、ほんの少し書き換える。
それは壮大な革命ではなく、仕様の修正に近い。
だが、その仕様修正が人の生死を変える。
「それ、やるとしたら……」
「世界の深層に触る必要がある」
ミレイアの声は平静へ戻っていた。
「だから上は嫌がる。運用の問題なら現場に押しつけられる。でも、設計の偏りまで見つかれば、“誰がその偏りを守ってきたか”まで問われる」
そのとき、資料室の奥からエルドが静かに現れた。
どうやら話の後半は聞こえていたらしい。
古板を抱えたまま、彼は二人の前へ来る。
「怒りは、証拠があって初めて仕事になる」
ミレイアが薄く笑う。
「相変わらず嫌な言い方」
「真実じゃ」
エルドは古板を広げた。
そこには、古代語の契約文と、戦後の改修指示の断片が並んでいた。
中心設備の保護優先。
補助式の資源配分。
地方結界の緊急時縮退。
理論ではなく、命令文として書かれている。
「証拠なら増えてきておる」
翔太は板を見た。
これはもはや“そう見える気がする”ではない。
世界法則の偏りは、実際に命令として埋め込まれていた。
その夜、翔太は自分の記録ノートへひとつだけ書いた。
ミレイアの怒りは感情ではなく、長年運用された不公平への観測結果だ。
書いたあとで、自分でも少しおかしくなった。
怒りを“観測結果”と呼ぶのは、いかにも技術屋の悪い癖だ。
だが、それでもこの言い方がいちばんしっくりきた。
見続けた人間にしか持てない怒りがある。
それは個人的でありながら、構造そのものを指している。




