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コードの向こう側 改  作者: たむ


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第三十話 勇者の不在

王都では、境界の雨と旧門試験の噂が、いつの間にか別の物語へ変わり始めていた。


市場の噂話。

巡礼の囁き。

酒場で語られる断片。

そういう場所では、現実の障害報告よりも、もっと分かりやすい物語のほうが強い。

世界が揺れている。

神殿が隠している。

なら、きっと近いうちに勇者か神託の子が現れる。

そういう話になる。


保守室へも、その手の話は入ってきた。

東街区の商人が「王都へ新たな救世主が来たらしい」と言っていた。

外縁の兵士が「異邦人が神に選ばれた」と噂していた。

誰かが旧門の発光を見て、「勇者の門が開いた」と言ったらしい。


グランツはその話を聞くたび露骨に嫌な顔をした。


「勝手に祭り上げて、勝手に失望するんだよな、そういう連中は」


サナは苦笑したが、目は少し不安そうだった。

保守室にいる“異邦人”が翔太だと知られれば、噂はもっと具体になる。


それは思ったより早く起きた。


神殿外郭の小広間で、保守局と治癒区画の連携調整が行われた日のことだ。

翔太はミレイアの補助で資料を運んでいただけだった。

だが廊下ですれ違った若い神官見習いが、首の金属札と見慣れない顔立ちを見て、はっと息を呑んだ。


「あの方が……」


声は小さかった。

それでも広がるには十分だった。


会議が終わって外へ出るころには、広間の周囲に視線が集まっていた。

露骨に跪く者はいない。

だが、好奇と期待と恐れが混じった目が、翔太へ向く。

その目を見た瞬間、彼はひどく居心地の悪い寒気を覚えた。


救世主。

勇者。

そういう目だ。


「行くよ」


ミレイアが低く言う。

だが通路の先で、一人の少年が飛び出してきた。

まだ十歳前後だろう。

母親らしい女が慌てて追ってくる。


「あなたが、門を開ける人?」


少年はまっすぐ翔太を見上げた。

悪意のない顔だった。

むしろ、信じきっている顔だ。


「父さん、外郭の修繕で戻ってなくて。神殿の人が、そのうち“来る人”が全部直すって」


翔太は何も言えなかった。

全部直す。

その言葉の重さと軽さが、同時に胸へ落ちる。

現場では誰もそんなことは言わない。

言えない。

だが外側では、そういう物語のほうが必要なのだ。


母親が少年を抱き寄せる。


「申し訳ありません、うちの子……」


「いいえ」


ようやくそれだけ言えた。

少年はまだ期待の目で見ている。

その期待を受け取る資格が、自分にあるとは思えなかった。


保守室へ戻るまでの道、翔太はほとんど口を開かなかった。

ミレイアも何も言わない。

地下へ降り、いつもの机と監視盤と散らかった工具のある場所まで戻って、ようやく少し呼吸ができる気がした。


「顔、死人みたい」


グランツが言う。


翔太は苦く笑った。


「さっき、勇者みたいな目で見られました」


グランツは即座に顔をしかめる。


「最悪だな」


「最悪です」


サナが気まずそうに目を伏せる。

レオンは黙っているが、眉間だけが少し寄っていた。

エルドは棚の前から振り向き、静かに言った。


「勇者とは便利な言葉じゃ。誰かに過剰な期待を押しつけるためのの」


その通りだった。

勇者がいれば、自分たちは待つ側にいられる。

誰かが来て全部直してくれると信じられる。

それは希望でもあるが、同時に責任の放棄でもある。


夜になって、翔太はひとりで監視盤の前に立っていた。

王都周辺の結界光は相変わらず不安定で、ルサ方面の記録系にはまだ小さな揺れが残る。

南門の転移門も完全には安心できない。

世界障害は、噂話とは違って、一度も劇的な顔をしてくれない。

地味で、執拗で、部分的で、だからこそしつこい。


「いた」


後ろからミレイアの声がした。

振り向くと、彼女は紙杯を二つ持っている。

片方を差し出してきた。


「温かいやつ。味は保証しない」


受け取ると、中身は薬草を煮たものらしく、苦かった。

だが喉には少し楽だった。


「俺、勇者じゃないです」


翔太は監視盤を見たまま言った。


「知ってる」


「全部直せない」


「知ってる」


「たぶん、全部は帰れないかもしれない」


そこまで言ってから、自分が口にした内容の重さに少し遅れて気づいた。

帰還条件の話を、ここまで直接ミレイアへ言ったのは初めてだったかもしれない。


彼女は少しだけ黙ってから答えた。


「それでも、あなたがいることで拾えてる障害がある」


慰めではない。

事実としてそう言った声だった。


「でもそれって、“勇者”とは違うでしょう」


翔太はかすかに笑った。


「裏方です。保守要員」


ミレイアは紙杯を口元に運び、それから言った。


「勇者より、そっちのほうがずっと現実的」


その言葉に、翔太は少しだけ救われた。

誰かに期待されるための物語ではなく、壊れたものをひとつずつ繋ぎ止めるための仕事。

それなら、自分にもまだ立てる場所がある。


監視盤の一角で、南門系が一瞬だけ揺れた。

二人同時にそちらを見る。

会話はそこで終わる。

終わっても困らない。

保守室では、そういう沈黙のほうが本物だった。


その夜、翔太は自分の記録ノートへ短く書いた。


勇者ではない。

だから、奇跡の形では救えない。

その代わり、壊れ方を少し遅らせることならできるかもしれない。


書き終えたあと、彼は少しだけその言葉を見つめていた。

落胆ではなかった。

むしろ、ようやく自分の役割の輪郭が現実へ落ちてきた気がした。

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