第二十八話 帰るか、残るか
西方旧門の再起動試験が可能だと分かったのは、木村に似た注釈を見つけてから四日後のことだった。
可能、といっても成功が保証されたわけではない。
むしろ逆で、条件はひどく限定されていた。
王都周辺の境界揺れが一時的に収まり、受け側契約の古い補助線を最小限だけ再接続し、深層の負荷が閾値を下回る数刻だけ門を試験的に開ける。
その短い窓のあいだなら、帰還経路の“片鱗”に触れられるかもしれない。
それが、エルドとミレイアの出した結論だった。
「触れられるかもしれない、って……」
翔太が言うと、ミレイアは机上の術式図を見たまま答えた。
「通れる保証はない。向こうの座標が本当に接続されているかもわからない」
「でも、今までで一番近い」
「そう」
彼女は顔を上げた。
「一番近い」
その言葉は、期待よりも緊張を呼び起こした。
帰れるかもしれない。
ずっと欲しかったはずの可能性なのに、いざ現実味を帯びると、胸の内側で別の感情が動き出す。
保守室の机。
ミレイア。
グランツ。
サナ。
レオン。
世界障害の記録。
それらを置いて、自分だけが帰路へ触れようとしている。
もちろん帰りたい。
それは本当だ。
だが“帰りたい”だけではもう済まない場所まで来てしまっていることも、本当だった。
試験は夜半、西方旧門地下で行われることになった。
立ち会えるのはミレイア、エルド、グランツ、翔太、それに監視役の術官が二人。
上層には「旧門安定化試験」とだけ通してある。
帰還経路の検証などと書けば、すぐ止められる。
西方旧門の地下は、前よりもさらに冷たく感じられた。
石壁の奥から低い唸りのようなものが伝わる。
床陣の古い刻線は、灯具の光の下で細く浮かび上がり、どこまでが補修でどこからが原式なのか一見では分からない。
翔太はその中心近くに立ち、深く息を吸った。
ここが、自分の帰る可能性にもっとも近い場所。
「開けるのは短時間だけ」
ミレイアが言う。
「接続が見えたら、無理に踏み込まない。まず座標の確認を優先する」
グランツが低く付け足す。
「お前が消えたら、今度は保守室の連中が高瀬みたいな注釈読む側になる。勝手に飛び込むな」
それは冗談めかしているようで、まったく冗談ではなかった。
翔太はうなずく。
「わかってます」
本当にわかっているのか、自分でも少し怪しかった。
帰路が目の前に開いたとき、自分がどこまで冷静でいられるのか、確信はない。
エルドが古代語の一節を読み、ミレイアが補助式を接続し、グランツが金属環の固定を確認する。
術官たちが監視盤へ視線を走らせる。
翔太は床陣の中心近くで、その構造の流れを読んでいた。
送る側。
受け側。
座標の癖。
閉じ忘れた契約を一時的に閉じ、足りない終端を補う。
それは、まるで一時的なパッチを当てたレガシー基盤だった。
「いく」
ミレイアの声と同時に、床陣が淡く光る。
青白い線が外周から内側へ走り、中心部の空間がわずかに歪んだ。
風ではない何かが、内側へ吸い込まれるように流れる。
翔太は目を凝らした。
歪みの向こうに、暗い室内の輪郭が一瞬見える。
白い蛍光灯。
机の角。
モニターの黒い縁。
息が止まった。
オフィスだ。
少なくとも、それに似た場所だった。
現代の、人工の、あの乾いた光。
心臓が激しく打つ。
帰れる。
いや、帰れるかもしれない。
その可能性が視界の向こうに本当に現れている。
「ショウタ!」
ミレイアの声が遠くなる。
歪みの中で、別の影が一瞬だけ動いた気がした。
人影。
机の向こう側。
木村かもしれない、と本気で思った。
その瞬間、監視盤の術官が叫ぶ。
「王都中枢結界、急落!」
空気が変わった。
床陣の光が一拍揺れる。
グランツが悪態をつく。
「ふざけるな、今かよ!」
別の術官が続ける。
「北西区画で結界破断予兆! 保持率が一気に落ちてる!」
翔太の視界の端で、保守室の仲間たちの顔が浮かぶ。
北西区画には居住域と保管庫がある。
破断すれば被害は大きい。
そしてこの旧門の試験を続ければ、いま使っている補助式の一部が王都側からさらに負荷を奪うことになる。
ミレイアの目が一瞬だけ翔太を見る。
何も言わない。
だが問いは明確だった。
帰るか。
残るか。
たぶん、ここが一番近い。
これを逃せば次がいつ来るかわからない。
もしかしたら、もう来ないかもしれない。
それでも、今この場で門を優先すれば、北西区画の結界は落ちる可能性が高い。
翔太は歪みの向こうを見た。
オフィスの光が、薄い膜の向こうに揺れている。
手を伸ばせば届きそうな距離に見えた。
だがその距離は、たぶん見た目ほど単純ではない。
木村の声は聞こえない。
けれど、あの口の形だけはまた蘇った。
戻れ。
それは“今すぐこっちへ帰れ”という意味だったのか。
それとも、“まだ戻れる側にいろ”という意味だったのか。
わからない。
「……閉じて」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
ミレイアが瞬きもせず聞き返す。
「いいの」
「北西区画が先です」
グランツがすぐ動く。
術官たちが旧門の補助線を切り替え、ミレイアが外周の流れを閉じる。
歪みの向こうの蛍光灯が、一瞬だけ強く光った。
その光の奥で、誰かの影がこちらを向いた気がした。
次の瞬間にはすべて消えた。
旧門の地下へ重い沈黙が落ちる。
翔太は自分の手が微かに震えていることに気づいた。
帰路を、自分で閉じた。
少なくとも今は。
「北西へ向かう」
ミレイアが短く言う。
誰もその判断を疑わなかった。
王都へ戻る馬車の中で、翔太は窓の外を見続けていた。
何も言えなかった。
後悔しているのか。
正しいことをしたと思っているのか。
どちらでもあり、どちらでもない。
ただ、選んでしまったことだけが重く身体に残っていた。
北西区画の結界は辛うじて持ちこたえた。
保守室総出の補強で、破断は免れた。
夜明け近く、ようやく一息ついたころ、ミレイアが翔太の隣に来て言った。
「責めてる人はいない」
翔太は苦く笑った。
「俺が責めてるんです」
ミレイアは少しだけ黙ってから答える。
「それでも、選んだのはあなた」
慰めにならない言葉だった。
だが、その慰めのなさがかえってありがたかった。
翔太は夜明け前の白い空を見た。
帰る機会を逃した。
それは事実だ。
だがそれと引き換えに、何を選んだのかも、もう事実として残ってしまった。




