第二十七話 木村に似た男
閉じ忘れた契約板の解析は、古記録の別の扉を開いた。
契約の終端欠落が戦時改修に由来するなら、その改修を誰がどう設計したのか、どこかに痕跡があるはずだ。
エルドは古板の束を年代ごとに並べ替え、ミレイアは西方旧門周辺の改修履歴を洗い、翔太は“記述の癖”に注目して読み進めていった。
癖。
それは変数名の付け方に似ている。
同じ処理でも、人によって説明の置き方が違う。
どこを省くか、どこだけ妙に細かいか。
未来の他人へ向けた文章には、どうしても書き手の輪郭が残る。
資料室の奥で、翔太はその日も古板の写しを追っていた。
戦時転移改修、外縁結界応急接続、受け側契約補正。
似たような断片が続くなか、一枚だけ、妙に読みやすい記述があった。
古代語に近い形式。
だが注釈の入れ方が、どこか実務的すぎる。
格調よりも、後で読む誰かが困らないことを優先している書き方。
その感じに、翔太は指を止めた。
「どうした」
エルドが聞く。
「この板……変です」
「悪い意味でか、良い意味でか」
「わからないです。でも、急に“読ませる気”がある」
エルドが横へ来る。
翔太は板の注釈欄を指した。
そこには本記述とは少し違う細い線で、補足らしきものが刻まれていた。
ここは省略せず残すこと。
後代の保守者が誤る。
翔太の心臓が強く打つ。
その言い方。
断言の仕方。
木村のレビューコメントに似ていた。
「……未来の他人、だ」
思わず口にしていた。
「何だって?」
グランツが遠くから聞き返す。
翔太は答えず、さらに注釈を追った。
受け側が正常に見えても、確認が取れていない場合は成功扱いにするな。
成功は壊れ方を遅らせるだけだ。
その瞬間、資料室の空気が遠くなる。
耳鳴りに近い感覚。
これはただの内容の一致ではない。
言い回しの癖が似ている。
木村が言いそうなこと。
いや、木村が実際に言っていたことに近すぎる。
「エルド、この注釈、誰のものですか」
エルドが刻線を覗き込み、目を細める。
「署名がある。……古い省略記号で読みにくいが、“タ・カ・セ”に近い」
翔太は一瞬、呼吸を忘れた。
「高瀬……?」
エルドが首を傾げる。
「この時代にそう読むかは断定できん。じゃが記号上は近い」
高瀬。
木村が前の世界で口にした、消えた人の名。
同じ綴りである保証はない。
ただの偶然かもしれない。
それでも、翔太の背中には冷たいものが走っていた。
「他にもあります」
彼は別の板を引き寄せた。
そこにも同じような注釈がある。
括弧を閉じる前に、呼び出し元を疑え。
見えている側だけを直すな。
括弧。
翔太は息を呑む。
木村の言葉。
高瀬が残したコメント。
転移前のオフィスで見た、あの文。
括弧が閉じれば、門は開く。
「どうした、顔色が悪いぞ」
グランツが近づいてくる。
翔太は板から目を離せなかった。
「前の世界で、似た言葉を知ってます」
「この書き手のか?」
「わからない。でも、あまりに似てる」
エルドはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「異なる世界を渡った者が、同じ癖を残すことはあるかもしれん」
「そんなことが……」
サナが青ざめた顔で呟く。
「ないとは言えぬ」
エルドは冷静だった。
「召喚機構が保守要員を外部から呼ぶなら、以前にも似た者が来た可能性はある。あるいは、おぬしの世界とこちらのあいだで記述の影響が相互に滲んだか」
翔太は板を持つ手に力が入りすぎていることに気づき、少しだけ緩めた。
高瀬がこちらへ来ていたのか。
あるいは、この世界の誰かの記述が向こうへ滲み、木村や高瀬に届いていたのか。
どちらにせよ、会社の古い共通部品とこの世界の古代契約板が、単なる偶然以上のもので繋がり始めていた。
「木村さんは何を知ってたんだ……」
その呟きに、ミレイアが顔を上げる。
「その先輩?」
「はい。たぶん、全部じゃない。でも、何かを見てた」
ミレイアは少し考えてから言った。
「なら、その人は“知らないことを知っていた”のかもしれない」
奇妙な言い方だった。
だが意味はわかる。
全体像を掴めてはいない。
それでも、目の前の現象が通常ではないことだけは確信していた。
木村はずっと、そういう場所に立っていたのかもしれない。
その日の夕方、翔太は古板の注釈を写し取り、自分なりの対応語を横へ書き込んでいた。
保守者。
受け側確認。
成功扱いにするな。
括弧を閉じる前に呼び出し元を疑え。
どれも木村の教えに重なる。
未来の他人へ向けた文章。
それが世界をまたいで自分へ届いているような気がした。
「これ、残したほうがいいですね」
サナが写しを覗き込んで言う。
「他の板よりずっと読みやすい」
「読みやすいのが怖いんだよ」
グランツがぼそりと言う。
「後に読むやつが困るって知ってる書き方だ。現場の人間しかこんな注釈は残さん」
翔太はその言葉にうなずいた。
高い理論や神話の文ではない。
疲れた誰かが、後で困る他人を少しでも減らそうとして残した文章だ。
だからこそ、木村に似ている。
夜、ひとりで机に向かいながら、翔太は木村の顔を思い出そうとした。
輪郭。眼鏡のフレーム。
コーヒーを持つ指。
「壊れても、直すのをやめない人」という声。
前より少しだけ、思い出すのに時間がかかった。
その事実が胸を冷やす。
直すほど、自分が薄くなるかもしれない。
その条件は、もう気休めではない。
記憶の端がすでにわずかに摩耗し始めている。
それでも、今日見つけた注釈は、妙な救いでもあった。
もし高瀬に似た誰かがこの世界にいたのなら。
もし木村がその痕跡を向こう側で拾っていたのなら。
世界のあいだには、断絶だけではなく、引き継ぎの細い線もあるのかもしれない。
翔太はノートの端に書いた。
木村に似た記述を発見。
高瀬=こちら側の保守者、または向こう側へ影響した書き手の可能性。
未来の他人は、世界をまたいでいるかもしれない。
書き終えたあと、彼はしばらくペンを置いたまま動かなかった。
木村の「戻れ」という口の形が、また思い出される。
あれは警告だった。
けれど同時に、引き継ぎでもあったのかもしれない。




