第二十六話 閉じ忘れた契約
南門施設の再現しない障害は、保守室に別の方向からヒントを連れてきた。
受け側確認の欠落。
正常扱いされた例外。
そして、床陣の縁に残る微かな引っかかり。
ミレイアは「単独の不具合じゃない」と断じ、エルドは古い契約系記録を洗い直し始めた。
転移門はただの道ではない。
送る側と受ける側、地脈と結界、利用許可と補助式。
いくつもの“約束”の上に立っている。
ならば、例外が正常として通ったなら、そのどこかで約束が閉じていない可能性がある。
「契約、ってそんなに重要なんですか」
翔太が資料室で聞くと、エルドは古板の束から顔も上げずに答えた。
「重要も何も、術式の大半は契約の変形じゃ」
「変形?」
「何を、どこまで、誰が、何と引き換えに、どういう条件で成立させるか。それを記すのが契約。結界も、治癒も、転移も、例外ではない」
翔太は少し黙った。
現実のシステムでいうなら、仕様、権限、例外条件、呼び出し元と戻り値。
契約という言い方は意外なようでいて、本質的にはかなり近い。
「古い契約は?」
「継ぎ足しの山じゃ」
エルドがようやく顔を上げる。
「戦のたび、飢饉のたび、王が変わるたび、神殿が都合よく書き換える。閉じたはずの契約を、閉じないまま次を足す。だから昔の術式は美しいが、今動いている術式はたいてい醜い」
その物言いには軽い嫌悪が混じっていた。
古いものを神聖視しているのではない。
本来閉じるべきものを閉じずに上から積んできた“運用の怠慢”を嫌っているのだ。
数日後、保守室は西方旧門近くの地下保管庫へ入る許可をようやく得た。
本来は上層の管理下にある場所で、契約板の原本に近いものが一部保管されているらしい。
境界の雨以降、旧門周辺の監視値が不穏なままなので、上も完全には無視できなくなったのだろう。
地下保管庫は冷たかった。
石壁の内部へ湿気がこもり、空気は乾いているのに、どこか古い井戸の底みたいな匂いがした。
棚には封緘された板群が並び、そのひとつひとつに年代と系統が刻まれている。
「転移系契約はこっち」
ミレイアが灯具を持ち上げる。
淡い光の下で、板の縁の金属が鈍く光る。
エルドが慎重に古い一枚を取り出した。
厚い。
現行の術式板よりずっと重く、面の中央に二重の円、その周囲に密な記述が入っている。
「読めるか」
翔太は板の前へ座り、息を整えた。
古代語ログを読むときと同じように、視界の焦点を“文字”ではなく“層”へずらす。
すぐに読めるわけではない。
だが数分かけて追ううち、記述の性質が少しずつ見えてくる。
「これ……契約を閉じてない」
グランツが顔をしかめる。
「何だって?」
翔太は板の外周部を指した。
「送受の成立条件が二重にある。しかも片方が終端処理を持ってない。本来なら一時契約で閉じるはずのものが、恒常契約みたいに残ってる」
エルドが近づき、目を細める。
「戦時改修の痕か」
「たぶん」
翔太はさらに内側を追った。
「転移の負荷を平時より多く流すために、受け側確認の一部を省略してる。その代わり、後で補正を返す前提になってる」
「後で返されていない?」
ミレイアが言う。
翔太はうなずいた。
「閉じ忘れてる。契約だけ残って、後処理が死んでる」
地下保管庫の静けさが一段深くなった。
誰もすぐには声を出さない。
それがどれだけまずいことか、現場の人間ほど理解が早い。
グランツが低く吐き捨てる。
「仮実装を恒久運用か」
その言い方に、翔太は思わず顔を上げた。
異世界に来てまで、そんな言葉を聞くとは思わなかった。
だが、あまりにも正確だった。
「しかも、たぶん一箇所じゃない」
翔太は板の裏面の刻線を追いながら言う。
「閉じないまま残った契約が、別の改修の前提になってる。南門の再現しない不具合も、その“閉じてない受け側契約”が一瞬だけ表面化したんだと思う」
ミレイアは無言で灯具を少し下げた。
光が板の刻線をなぞる。
薄い傷、継ぎ足し、消されかけた記述。
世界障害は突然生まれたのではない。
昔の戦争で行われた無理な改修が、閉じないまま世界の深部へ残っていたのだ。
「つまり」
ミレイアが静かに言う。
「世界は古い非常運用のまま、平時を何百年も続けてきた可能性がある」
エルドが目を閉じた。
「美しい話ではないの」
翔太にはそれが、妙に現実的で救いのない話に思えた。
戦時の暫定対応。
誰かが仕方なく入れた例外。
後で戻す予定だったもの。
結局誰も戻さず、そのまま本番で動き続ける。
現実の会社でも、そんなものばかりだった。
だがここでは、それが一案件ではなく世界の基盤だった。
保管庫を出るころには、夜が深くなっていた。
神殿の地上階は静まり返り、燭台の火だけが細く揺れている。
歩きながら、ミレイアがぽつりと言った。
「閉じ忘れた契約、か」
「木村さんも、似たこと言いそうだな」
翔太が無意識に呟くと、ミレイアが横を見る。
「その人、よく話に出るわね」
「前の世界で、こういう“後で戻すはずだったもの”を一番嫌ってたんです」
「まともね」
「だから疲れてました」
その返しに、ミレイアは小さく笑った。
それだけだった。
だがその笑いがあるだけで、地下保管庫で見た気味の悪い記述が少しだけ現実へ戻る気がした。
その夜、翔太は自分の机で契約板の構造を図に起こした。
送受の成立条件、終端の欠落、戦時補正、補助式の継ぎ足し。
図を書けば書くほど、目の前の世界が巨大なレガシーシステムにしか見えなくなる。
だがそれは、この世界を軽く見ることとは違った。
むしろ逆で、あまりにも人間的な壊れ方をしているからこそ、怖かった。
彼は欄外へ書き足す。
閉じ忘れた契約は、いずれ別の処理で必ず踏まれる。
踏まれた時点では、もう元の書き手はいない。
その一文を書いた瞬間、木村の背中が頭に浮かんだ。
未来の他人。
たぶん自分も、いつか誰かの“いない書き手”になるのだろう。
そう思うと、妙に寒かった。




