第二十五話 再現しない不具合
王都南門の転移門が暴走しかけたのは、境界の雨から十二日後の深夜だった。
最初の報告は簡素だった。
到着先座標の一時ずれ。
接続再試行後に復旧。
利用者一名軽傷。
それだけ見れば、厄介ではあるが局所的な障害に見える。
だが保守室の誰も、それを素直には受け取らなかった。
転移門の座標ずれは、壊れ方として最悪に近い。
しかも“再試行で戻った”という一点が、かえって不気味だった。
再現しないものは、たいてい次にもっと悪い形で戻ってくる。
南門へ向かう馬車の中で、ミレイアは報告板を何度も見返していた。
グランツは無言で工具箱を抱え、サナは到着時刻と利用者記録の控えを膝の上で揃え直している。
翔太は窓の外の暗い街道を見ながら、頭の中で報告文の違和感を何度もなぞっていた。
「軽傷の利用者って、何が起きたんですか」
「到着直後に平衡感覚の喪失と短時間の言語混線」
ミレイアが答える。
「転移失敗としては軽いほう」
軽い。
その言葉の基準がもうこの世界のものになっていることに、翔太は少しぞっとした。
言語混線を“軽い”と呼ばなければ回らない現場に、自分も慣れ始めている。
南門施設は王都の外縁に沿って造られた中規模の中継門だった。
夜半にもかかわらず、現場は明るい。
兵士、門番、運用役、記録係。
皆が緊張した顔をしている。
だが、その緊張は混乱ではなく、説明しにくい事態をどうにか制度の言葉へ押し込めようとしている顔だった。
「再現しません」
現場責任者の男は保守室の面々を見るなり、言い訳に近い声で言った。
「最初のずれは確かにありました。利用者の到着位置が半歩ほど壁側へ寄った。けれど再試行後は正常です。門圧も戻っている。監視値も安定していて……」
「安定してるように見えるだけ、かもしれない」
ミレイアが遮る。
男は不快そうに口を結んだが、反論しなかった。
現場の責任者も、本当はそれを一番わかっている。
翔太は門の床陣を見た。
石床に埋め込まれた金属環。
結界補助線。
到着座標の固定刻線。
見た目には傷も欠けもない。
グランツが金属帯の歪みを測り、サナが利用記録の流れを追い、ミレイアは監視盤の履歴を開く。
「利用者の名前は」
翔太が聞くと、記録係が答えた。
「商人ギルド所属、ヨルン。王都から北方小都市ベリスへの転移申請でした」
「そのとき他に利用者は?」
「前後に二名。ただし問題はこの一件のみ」
一件のみ。
それも厄介な響きだった。
連続再現しないものほど切り分けが難しい。
翔太は記録係から履歴板を借り、前後の転移記録を見比べた。
使用者、時刻、転移先、固定補助式、外縁結界の状態。
表面的には問題がない。
だが、中央付近の補助記録欄にだけ、妙な空白がある。
「ここ、何ですか」
記録係が覗き込む。
「どこでしょう」
「この欄、本来なら受け側確認の印が入るはずですよね」
記録係は数秒黙り、渋い顔になった。
「……入るはずです」
「この一件だけ抜けてる」
ミレイアがすぐ横へ来る。
履歴板を見るなり、眉をひそめた。
「送る側は正常、受け側確認が一瞬だけ取れてない」
「でも到着はしたんですよね」
サナが言う。
「した。だから余計にまずい」
ミレイアの声は低かった。
「受け側確認なしで着いたなら、どこかが強引に“正常扱い”した可能性がある」
翔太はその言葉に、現実の本番障害でたまに見た嫌なケースを思い出していた。
本来なら失敗として止まるべき処理が、何らかの例外処理で成功扱いになってしまう。
表面は丸く収まる。
だが内部では整合性が壊れたままになる。
「利用者に聞けますか」
「軽症だから治癒院で一晩休ませてる」
ミレイアが答える。
その夜、治癒院で話を聞くと、商人ヨルンは転移の瞬間のことをうまく説明できなかった。
門に入った。
眩しさが来た。
着いた。
だが、そのあいだに「誰かに押し戻された気がした」と言う。
体感として前へ行くはずなのに、一瞬だけ横から手が入ったような感覚。
そして到着先の風景に、知らない色が混じった。
「知らない色?」
翔太が聞くと、商人は困った顔をした。
「色というか……見たことのない空の影みたいな。すぐ消えたけど」
帰路、ミレイアは言った。
「受け側の座標ずれだけじゃない。接続先の解釈に別の層が混じってる」
「でも記録上は一件だけです」
サナが言う。
「一件だけ表面化した、のほうが正しいかも」
翔太は窓の外の闇を見たまま呟いた。
「記録が取れてる失敗が一件、ってことは、記録されてない揺れはもっとある」
ミレイアが何も言わなかったことが、肯定に近く感じられた。
翌朝、南門施設の再点検でも障害は再現しなかった。
受け側の監視値も正常。
補助線も異常なし。
現場責任者は「一時的な揺れでしょう」とまとめたがっていた。
制度としてはそうするしかない。
だが翔太は、床陣の縁に指を触れたとき、微かな引っかかりを感じていた。
正常なまま、おかしい。
それは最も気味の悪い壊れ方だった。
帰還の馬車で、翔太はノートに一行だけ書いた。
再現しない不具合は、直っているのではなく、まだ説明できる形で壊れていないだけかもしれない。
その言葉を見ながら、彼はふと木村の顔を思い出していた。
“再現しないから一番嫌なんだよ”
昔、会社の障害対応でそんなふうに言っていた気がする。
その声色まで思い出せそうで、届かない。
記憶はまだある。
だがその輪郭の端が、少しずつ薄くなり始めている気もしていた。




