第十六話 古代語ログ
資料室の最奥には、保守局の人間でもあまり近づかない棚があった。
入室制限があるわけではない。
ただ、古すぎて読めず、重く、整理もされていない。
現実の会社でいえば、誰も触りたがらない共有フォルダの奥、命名規則の崩れたバックアップ群みたいなものだった。
「そこはエルドしか掘らない」
グランツが言ったのは、翔太がその棚に目を止めた初日のことだ。
「読めるのか読めないのかも怪しい板ばっかりだ」
だが数日後、東門系や北区外郭の記録を追ううちに、翔太はどうしてもその棚を避けて通れなくなった。
後補修の痕跡はどれも新しい側からしか辿れない。
なら、古い側を見ないと全体の歪みは読めない。
エルドはその申し出を聞くと、意外にもすぐ反対しなかった。
代わりに、細い目で翔太を値踏みするように見た。
「古記録は知識ではなく癖で読む。おぬしの癖が使えるかどうか、わしにもまだわからん」
そう言って、一枚の古い金属板を差し出した。
縁が欠け、表面は鈍く黒ずんでいる。
だが中央部には、今の術式板より細かく密な記述が刻まれていた。
「読んでみい」
翔太は板を机に置き、じっと見た。
最初の数秒は何もわからない。
次の数秒で、視界のほうが勝手に焦点を変え始める。
線ではなく層。
文字ではなく接続。
その感覚が立ち上がると同時に、頭の奥で妙な圧迫感が生まれた。
「……これは、記述じゃない」
エルドの眉が動く。
「ほう」
「記録です。実行履歴に近い。たぶん運用中の状態変化を刻んでる」
ミレイアも手を止めてこちらを見る。
翔太は板の一角を指した。
「ここ、同じ記号の反復に見えるけど、微妙にズレてる。処理じゃなくて、状態遷移の連なりです」
エルドは黙ったまま板を受け取り、自分でも確認するように目を細めた。
やがて、低く呟く。
「……古代語ログか」
その言葉に、保守局の数人が反応した。
古代語ログ。
用語として存在するのだ。
「読めるんですか、それ」
翔太が聞くと、エルドは苦い顔をした。
「読める者は少ない。読めても断片じゃ。多くは神話の一節か儀礼文として扱われておる」
「でもこれは記録?」
「たぶんの」
エルドは椅子に座り直し、別の板を取り出した。
「戦前の基盤管理層では、術式そのものと運用記録を同系統の記法で残しておったらしい。後代の連中はそれを区別できず、“神の言葉”にした」
翔太はその言い方にぞっとした。
ログが神話になった。
誰も読めなくなった運用記録が、意味だけ失って権威へ変わる。
それは十分ありえる話だった。
二枚目、三枚目と板を読むうちに、頭の痛みは強くなった。
だが同時に、いくつかの断片がつながり始める。
第四境界層、維持率低下。
外部接続、再試行。
召喚ルーチン、保守要員不足につき保留。
翔太の指が止まる。
「いま、何と?」
ミレイアが身を乗り出す。
翔太は自分でも信じられない気持ちで、刻線をもう一度なぞった。
「召喚……ルーチン。保守要員不足につき保留」
部屋の空気が変わった。
グランツが遠くで「は?」と短く声を漏らす。
エルドは目を閉じ、何かを噛みしめるように黙っていた。
「それ、間違いじゃないの」
ミレイアの声は低い。
否定したいからではなく、確認したいから低い。
「わかりません。でも……少なくとも、召喚って単語に近い構造です。儀礼じゃない。運用上の処理名みたいに見える」
処理名。
その言葉に、グランツが椅子を引きずって近づいてきた。
「つまり何だ。召喚ってのは奇跡でも神意でもなく、昔の連中が仕組みに組み込んだ保守機能だってのか」
翔太は喉を鳴らした。
「まだ断定はできないです。でも、少なくとも“偶然の奇跡”として書かれてはいない」
エルドがようやく口を開く。
「続けろ」
その声は、年齢を感じさせない強さを持っていた。
翔太はさらに板を読み進めた。
欠損。反復。読めない部分。
だが断片だけでも、嫌なほど現実的な言葉が並ぶ。
境界層損傷率上昇。
内部術官では復旧不能。
異系統思考を外部より招聘。
異系統思考。
外部より。
招聘。
翔太は目を閉じた。
オフィスの黒い画面が一瞬だけ頭に蘇る。
外部思考形式の接続を試行。
高瀬の残した open_gate()。
()
Enter。
光。
「……俺」
言いかけて、止まる。
保守局の皆がこちらを見ていた。
その視線の強さに、自分がいま何の中心に触れているのかを思い知らされる。
「俺は、呼ばれたんですか」
問いは誰に向けたものでもなかった。
だが答えたのは、ミレイアだった。
「少なくとも、事故だけではなさそうね」
その声には慰めがなかった。
代わりに、現実だけがあった。
エルドは板を一枚ずつ布で拭きながら言う。
「保守要員。なるほどの。英雄ではなく、修復者として呼ぶ機構があったのかもしれん」
グランツが低く笑う。
「嫌な話だな。世界が壊れたら、外からデバッグ要員を連れてくるってか」
デバッグ。
もちろんこの世界にそんな単語はない。
だがグランツの言い方の本質は、まさにそれだった。
その日の夕方、翔太は資料室の机に向かい、板から読めた断片を自分なりの記録へ落とし込んでいた。
古代語の原文、推定意味、構造上の位置。
木村ならきっとこういうとき、まず残せと言うだろうと思った。
消えるログは信用しきれない。
だから記録する。
だが書きながら、翔太の手はときどき止まった。
召喚ルーチン。保守要員。外部思考。
それらが全部、自分へ向かって閉じてくる感じがする。
帰りたい。
その気持ちはまだ確かにある。
けれど、もし自分が単なる事故ではなく、この世界の側から“必要”として呼ばれたのだとしたら。
その必要は、いつ終わるのか。
直したら帰れるのか。
それとも、直せるかぎり使われ続けるのか。
資料室の窓は小さく、夕方の光は細い線でしか入らない。
その線の中で、古い板の刻線だけが妙に鋭く光って見えた。
ログは神話ではなかった。
神話の皮を被った、古い運用記録だった。
その事実は、この世界を少し理解可能にした。
同時に、理解したくなかった種類の現実も連れてきた。
翔太は記録の最後に、一行だけ自分の言葉を書き足した。
この世界は、壊れたから俺を呼んだのかもしれない。
書いた文字を見つめながら、彼はその文が誰に向けたものなのかを考えていた。
未来の自分か。
保守局の誰かか。
それとも、まだ向こう側にいるはずの木村か。




