第十七話 帰還条件
古代語ログの解読から三日後、ミレイアは翔太を保守局のさらに奥、普段は使われていない小部屋へ呼んだ。
その部屋には机がひとつと、壁一面の術式板、それから床に浅く刻まれた古い円陣があるだけだった。
窓はなく、発光石の白い光が部屋全体を均質に照らしている。
装飾らしいものは何もない。
祈りのための部屋ではなく、確認と判断のための部屋だとすぐにわかった。
ミレイアのほかに、エルドもいた。
いつもの資料室よりも口数が少なく、板の束を腕に抱えている。
グランツはいない。
保守局でも、ここへ入るのは限られた人間だけなのだろう。
「何か分かったんですか」
翔太が聞くと、ミレイアはすぐには答えず、扉の施錠を確認した。
その所作だけで、話が軽くないことは伝わった。
エルドが机に板を広げる。
昨日までに読めた古代語ログの断片、それと神殿側が秘匿していたらしい転移施設の旧記録が並んだ。
文字の一部は欠けている。
だが、いくつかの線は確かに繋がり始めていた。
「結論から言う」
ミレイアが言った。
「あなたが元の世界へ戻る方法は、たぶんある」
翔太は息を止めた。
“ない”よりはましだ。
それでも、その言葉に安心はなかった。
ミレイアがこういう前置きをするとき、後に続く条件はたいてい重い。
「たぶん、っていうのは」
「不完全だから」
答えたのはエルドだった。
「転移は偶発ではない。だが完全な往復機構でもない。外部思考を呼び入れる回路は残っておる。じゃが、戻す側は崩れておる」
翔太は古代語ログの一行へ目を落とした。
そこには、かろうじて読める語が並んでいる。
外部接続、再試行。
帰還経路、維持不能。
「じゃあ、俺は……」
「片道の救援要員に近い」
ミレイアの言葉は容赦がなかった。
「少なくとも今わかってる記録上ではね」
それはひどく現場的な言い方だった。
英雄でも選ばれた存在でもない。
緊急時に呼ばれた外部要員。
業務委託の障害対応みたいだ、と翔太は場違いなことを思う。
場違いなのに、その喩えがいちばん近い気がした。
「でも方法はあるんですよね」
自分でも少し強い声だった。
ミレイアはうなずく。
「ある。ただし条件がある」
やはり、と思った。
希望はたいてい条件付きで来る。
エルドが別の板を示す。
複雑な円と、その外周にいくつもの接続点。
中央には、今の保守局で使われる記法とは違う、より古い術式の核が刻まれている。
「これは王都西方にある旧転移門の深層構造じゃ。閉鎖され、いまはほとんど使われておらぬ。じゃが帰還経路を繋ぐなら、ここが最も近い」
「近い、というのは」
「元の世界との“座標の癖”が残っておる」
翔太はその言い方に、木村の顔を思い出した。
会社のログに混ざった座標。再解釈の失敗。
もしかすると、自分の世界とこの世界は、完全に無関係ではないのかもしれない。
それを考えるだけで、胸の奥が少しざわついた。
ミレイアは続ける。
「ただしその門を使うには、周辺の境界層が一定以上安定していないといけない。いまの状態では、門を開いても繋がる前に崩れる可能性が高い」
「安定させればいい」
翔太が言うと、ミレイアは目を細めた。
「言うのは簡単」
「どのくらい必要なんですか」
「少なくとも、王都周辺の主要結界網と転移系の揺れを収める程度には」
それはつまり、個別施設ひとつ直せば済む話ではない。
世界の基盤側へ踏み込めという意味だ。
翔太はしばらく黙った。
部屋の空気は白く乾いている。
遠くから金属の触れ合うような音が小さく聞こえた。
保守局のどこかで、別の誰かが別の問題に対処している音だ。
「直せば、帰れるんですか」
問いは単純だった。
だが答えは単純ではなかった。
エルドが低く言う。
「直す、という言い方次第じゃ」
ミレイアも同じ方向を向いていた。
「世界障害の大きい箇所を抑えるほど、帰還門の成功率は上がる。そこまではいい」
「そこまでは?」
「古代語ログに、もうひとつ嫌な記述がある」
エルドが板を裏返す。
傷だらけの面の下に、薄く残った刻線。
翔太はその一部を読み取ろうとして、頭の奥に鈍い痛みを覚えた。
外部要員、接続深度上昇。
現地基盤との結合強化。
帰還識別子、順次減衰。
翔太は言葉の意味を追い、数秒遅れて理解した。
「……この世界に深く接続するほど、元の世界との繋がりが薄くなる?」
ミレイアがうなずく。
「たぶん」
またその言葉。
だが今回は、その曖昧さを責める気になれなかった。
こんな古い記録を前に、断言できるほうがむしろ怖い。
「具体的には、何が起きるんですか」
「記憶の摩耗、帰還座標の散逸、元世界での識別誤差」
エルドは指先で板の縁をなぞる。
「要するに、こちらの基盤へ深く触れるほど、“向こうへ戻るおぬし自身”が曖昧になる可能性がある」
翔太は何も言えなかった。
帰りたい。
その気持ちは明確だ。
だが帰るためには、この世界を直さなければならない。
そして直すほど、自分が帰る側の人間でいられなくなるかもしれない。
あまりにも出来すぎた、ひどい条件だった。
「高瀬さんも……」
気づくと口にしていた。
ミレイアが顔を上げる。
「誰」
「前の世界で、同じものを追ってた人です」
説明は短くした。
木村がいたこと。
会社の古い共通部品。
消えるログ。
高瀬という人がそれを追って消えたこと。
全部を話せたわけではない。
だが、自分の前に別の誰かが同じ“向こう側”へ手を伸ばしていたことだけは伝えた。
ミレイアは黙って聞いたあと、小さく言った。
「帰れなかったのかもしれない」
その一言に、部屋の空気がさらに冷たくなった気がした。
翔太は机の端を握った。
木村の「戻れ」が耳の奥で蘇る。
あれは単に危険から離れろという意味ではなかったのかもしれない。
戻れるうちに戻れ。
そういう意味も含んでいたのかもしれなかった。
「じゃあ俺は、どうすればいいんですか」
誰に向けた問いか、自分でもわからなかった。
ミレイアは即答しなかった。
彼女はいつも、簡単な慰めを言わない。
そこが時々残酷で、同時に信用できるところだった。
「選ぶしかない」
やがて彼女はそう言った。
「帰る可能性を優先するなら、深く触れすぎない。現場での関与も限定する。そうすれば帰還識別子の減衰は遅いかもしれない」
「世界のほうは」
「悪化する」
「逆に、直す側へ入れば」
「帰還の条件には近づく。でも、帰れる“あなた”がどれだけ残るかはわからない」
それは選択というより、どちらも失う種類の賭けだった。
翔太は長く息を吐いた。
会社に入ってから、選択とはたいてい、複数の損失のうちどれを引き受けるかだった。
ここでも結局、それは変わらないらしい。
帰り際、ミレイアは部屋の前で立ち止まり、低く言った。
「急いで答えを出さなくていい」
「でも、世界のほうは待ってくれない」
「そう」
彼女は目をそらさなかった。
「それでも、決めるのはあなた」
その晩、翔太は保守局の机で、古代語ログの訳文を前に長く座っていた。
ペンは持っているのに、何も書けない。
書いてしまうと、条件が本当に現実になってしまう気がしたからだ。
帰る方法はある。
ただし、直すほど帰れなくなるかもしれない。
あまりにもこの世界らしい条件だと思った。
救済に見えるものが、必ず別の代償を連れてくる。
たぶん現実も、もともとそうだったのだろう。
ただ、ここではそれがはっきり記述されているだけだ。
翔太はノートの隅に、一行だけ書いた。
帰還条件:世界を直すこと。
ただし、直すほど自分が薄くなる可能性あり。
その文字を見つめながら、彼は初めて、自分の帰還がただの“移動”では済まないのだと理解した。




