第十三話 仕様書のない世界
神殿保守局で三日過ごしたころ、翔太はこの世界の“わからなさ”に少しずつ種類があることを知り始めていた。
わからないことには二つある。
本当に未知で、手がかりがひとつもないもの。
そして、皆がなんとなく運用しているせいで、誰も正確には知らないもの。
後者のほうが厄介だと、翔太は現実の仕事で学んでいた。
この世界はどうやら、その厄介なほうに満ちている。
「これを読んで」
ミレイアが渡してきたのは、薄い金属板を何枚か綴じた束だった。
紙ではない。指先で触れるとひやりと冷たく、表面には細かい線と文字が刻まれている。
術式板、と呼ぶらしい。
「何ですか」
「転移門周辺の基礎記述。入門者向け」
入門者向け。
その言葉に、翔太は少しだけ身構えた。
現実でも“入門”と名のつく資料が本当に入門だったためしは少ない。
机に広げてみる。
記号、曲線、文字列。
最初の数分はまったく読めなかった。
だが、じっと見ているうちに、視界のどこかでまとまりが変わる。
これは模様ではない。
レイヤーだ。
処理単位が分かれている。
同じ記号の反復には意味がある。
条件。例外。接続点。優先順位。
その感覚が立ち上がった瞬間、翔太は自分でもわかるほど顔色を変えた。
「読めるの?」
向かいの席で記録整理をしていたミレイアが言う。
「……全部じゃないです。でも、構造が」
「どう見える」
翔太は板の一角を指した。
「ここ、外側の円が主処理で、その内側に補助式がぶら下がってる。たぶん入力条件が複数ある。こっちは例外時の分岐……だと思う」
言いながら、自分でも信じられなかった。
知らない記号なのに、関係性だけがわかる。
文章を読んでいるというより、流れを掴んでいる感じだった。
ミレイアはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「気味が悪いくらい適確」
褒め言葉ではない。
だが、事実としてそう言ったのだとわかる。
「私でも、そこまで直感で読めない」
「俺も、意味まではわかってないです」
「意味より構造のほうが大事なこともある」
その言葉に、翔太は木村を思い出した。
コードは未来の他人に向けた文章。
その文章を読むとき、意味と同じくらい構造が要る。
保守局の資料室には、膨大な術式板と写本が収められていた。
だが、それらは現代的な意味で“仕様書”ではなかった。
神話、註釈、儀礼記録、実施記録、口伝の転写、個人メモ。
体系立てた設計資料ではなく、必要に応じて継ぎ足され続けた断片の山だ。
誰かが何かを知っている。
けれど誰も全体を把握していない。
その点で、この世界は現実のレガシー現場と恐ろしいほど似ていた。
「原式典は?」
翔太が聞くと、資料棚を整理していた老学者風の男が鼻を鳴らした。
「失われたよ。正確には、部分しか残っておらん」
男の名はエルド。
保守局で古記録の解読を担当しているという。
年齢は六十を超えているように見えるが、眼だけは異様に鋭い。
「設計者が残した本来の記述は、戦で焼け、奪われ、禁書にされ、神話に吸われた。いま我らが扱っておるのは、その残骸じゃ」
「じゃあ、今の術式が何を根拠に動いてるか、全部はわからないんですか」
「全部がわかっておる仕組みなど、世界にそう多くあるまい」
エルドはそう言って棚から一枚の古びた板を抜き出した。
表面はひどく擦り減っているのに、中央だけ妙に線が鮮明に残っている。
「だが、わからぬまま動いておるものほど危険じゃ」
その言い方に、翔太は思わず苦笑した。
どこの世界でも同じだ。
動いているから触れない。触れないからわからない。わからないまま依存が深くなる。
午後、ミレイアは翔太を連れて東門系の転移施設へ行った。
三日前に不安定化した現場だ。
王都の外れ、石造りの中継施設は半地下になっており、内部はひどく乾いていた。
床の中央には複雑な円陣が刻まれ、その縁に細い金属片が埋め込まれている。
いくつかは黒ずみ、ひとつは欠けていた。
「ここが受け側」
ミレイアが言う。
「送る側じゃなく、受ける側の解釈がずれると、通るものも通らなくなる」
翔太はしゃがみ込み、床の刻線を見た。
見た瞬間、背中がざわつく。
これはコードではない。
だが、コードと同じ種類の間違いがある。
「ここ、条件が後付けされてます」
ミレイアがすぐ横へ来る。
「どこ」
翔太は金属片の周辺を指した。
「本来なら内側の輪と同じ規則で続くはずなのに、ここだけ別の記法が割り込んでる。しかも古い線を消さずに上から重ねてる」
ミレイアは眉を寄せる。
同行していたグランツもしゃがみ込み、低く唸った。
「戦時改修か……?」
「かもしれない。でも雑すぎる」
翔太の口から出たその言葉に、自分で少し驚いた。
異世界の古代術式に向かって“雑すぎる”と言っている。
だが、本当にそう見えたのだ。
「場当たり的です。たぶん当時はそれで動いた。でも、長期運用する前提じゃない」
ミレイアが小さく息を吸う。
「つまり?」
「仮対応のまま本番運用してる感じです」
グランツが苦い顔で笑った。
「嫌な言い方だが、わかりやすいな」
嫌な言い方。
だが、現場の人間にはよく通じる言い方だった。
施設内をさらに調べていくと、似たような継ぎ足しがいくつも見つかった。
本来の記法にない注記。途中から変わる線幅。別人の手で追加された補助式。
それらが積み重なった結果、全体はまだ動いている。
動いているが、もはや本来の設計意図とは別のものになっている。
「仕様書がないんじゃない」
翔太は床を見下ろしたまま言った。
「仕様が変わり続けて、誰も追えてないんだ」
ミレイアもグランツも、すぐには何も言わなかった。
その沈黙は否定ではなく、認めるほうの沈黙だった。
王都へ戻る馬車の中で、ミレイアは珍しく長く黙っていた。
夕方の光が車窓から差し込み、彼女の横顔を平たく照らしている。
ようやく口を開いたのは、神殿の塔が見えてきたころだった。
「あなたの世界でも、そうなの」
「何がですか」
「本来の設計が失われて、後から継ぎ足したものでなんとか生かしてる」
翔太は窓の外を見た。
石畳。行き交う荷車。遠くの結界光。
その景色の上に、会社のオフィスの蛍光灯が一瞬だけ重なる。
「はい」
答えはすぐ出た。
「むしろ、そっちのほうが多いです」
ミレイアは小さく笑った。
疲れた人間だけができる笑い方だった。
「救いがないわね」
「でも、動いてるあいだは皆それで何とかする」
「壊れるまで?」
「壊れてからも、たぶん」
その会話に、二人とも続きはなかった。
言葉にするとあまりにもそのまますぎて、慰めにも希望にもならない。
その夜、保守局の隅の机を借りて、翔太は東門系施設の簡易メモを書いた。
図。継ぎ足し箇所。危険そうな接続点。仮説。
書いているうちに、周囲の術官たちが時々足を止めて覗いていく。
文字はこの世界の書記法に合わせてミレイアが補ってくれたが、構成そのものは翔太のやり方だった。
「報告書みたい」
ミレイアが横から言う。
「前の職場で、こういうの書いてたので」
「役に立つわね」
その一言に、翔太はペン先を止めた。
役に立つ。
その言葉は自分にとって、ずっと救いと呪いの両方だった。
この世界でも、それは変わらないらしい。
机の上には、自分の書いた線と注釈が増えていく。
それを見ながら、翔太はふと理解した。
自分はまだ帰りたい。
帰る方法があるなら、帰りたい。
けれど同時に、この“壊れかけた仕組み”から目を逸らせなくなっている。
それは責任感というより、もっと悪い癖に近かった。
問題が見えると、分解したくなる。
分解できそうだと、直せる気がしてしまう。
その感覚が、異世界に来ても消えていない。
むしろ、ここではそれが自分の唯一の足場なのだと、少しずつわかり始めていた。




