第十二話 神殿保守局
隔離室は牢ではなかった。
だが、客室でもなかった。
石造りの小さな部屋に寝台と机と水差しが置かれているだけで、窓は高い位置に細く開いている。外の空は見えず、朝か夜かは光の色でしか判別できない。
翔太はその部屋で一晩を過ごしたが、眠れたとは言い難かった。
目を閉じるたびに、オフィスのモニターが浮かぶ。
木村の顔。田中の声。
だが思い出そうとするほど、その輪郭が薄い紙みたいに平たくなっていく。
逆に、ここで嗅いだ石と水と油の匂いのほうが、異様に鮮明だった。
朝、扉が三度ノックされた。
入ってきたのは昨日のミレイアだった。
今日は灰色ではなく、深い紺色の外套を羽織っている。腕にはいくつかの革帯が巻かれ、そこに細い金属板や石片のようなものが差してあった。道具なのだろう。
「歩ける?」
「はい」
「じゃあ来て。上に説明する前に、現場を見せる」
翔太は一瞬戸惑った。
「現場?」
「保守局よ」
それは言葉としては理解できるのに、現実感の薄い名称だった。
神殿。異世界。保守局。
不思議なほど、場違いで、だからこそ本物らしい。
神殿の内部は、昨日の印象以上に庁舎に近かった。
高い天井、広い通路、部屋ごとに違う匂い。
香のようなものが漂う礼拝区画を抜けると、空気はすぐ油と紙と焦げた金属の匂いへ変わる。
人の歩き方も変わる。祈る人間より、急いで資料を運ぶ人間のほうが多い。
「神殿って、もっと……」
翔太が言いかけると、ミレイアが先に続けた。
「もっと静かで神聖だと思った?」
「少し」
「表はね」
彼女は廊下を曲がりながら言う。
「でも、結界も転移門も治癒術も、祈るだけじゃ動かない。維持する人間がいる」
保守局は神殿の西棟地下にあった。
階段を下りるにつれ、空気はひんやりしていく。
壁には等間隔で淡い発光石が埋め込まれ、一定の明るさを保っていた。
廊下の奥から、金属音に似た高い響きと、時折、紙束を叩くような乾いた音が聞こえる。
扉を開いた瞬間、翔太は息を止めた。
そこは、どこかで見たことのある種類の混沌だった。
広い部屋。
机が並び、その上には石板、羊皮紙、金属板、透明な板材、見慣れない器具が山積みになっている。壁際には巨大な円盤めいた装置が立てかけられ、床には術式らしい線が途中まで引かれたまま放置されている。
何人もの人間がそれぞれ別の作業をしていた。
誰かは記録を写し、誰かは器具を調整し、誰かは激しく言い争い、誰かは寝不足の顔で机に突っ伏している。
そして何より、誰も“神秘”の顔をしていなかった。
全員、現場の顔をしていた。
「おいミレイア、その転移者か」
遠くの机から、髭面の中年男が顔を上げた。
片腕に包帯を巻き、机には金属片と焼けた紙片が散らばっている。
「そう。まだ確定じゃないけど」
「確定じゃなくても面倒は来るんだよな」
男は椅子を軋ませて立ち上がる。
その動作ひとつで、翔太は彼が現場の人間だとわかった。立ち上がり方が雑で、だが必要な分だけ素早い。
「グランツ。保守局の術式工」
男は名乗った。
「見た感じ弱そうだな」
「失礼ですね」
「失礼で済むうちはいい」
そのやり取りを聞きながら、翔太は少しだけ安堵していた。
異世界の保守局は、少なくとも現実の職場と同じく、皮肉と疲労で回っているらしい。
ミレイアは部屋の奥を顎で示した。
「こっち」
案内されたのは、中央壁面を占める大きな盤面の前だった。
巨大な地図のように見える。
だがよく見ると、そこに描かれているのは単なる地形ではない。都市ごとの結界網、転移門の接続、地脈の流れ、治癒域の有効範囲。
いくつもの層が重ねて可視化されている。
翔太は無意識に一歩近づいた。
理解できないはずなのに、頭のどこかが“構造物”としてそれを読もうとする。
「これが、世界の基盤……みたいなものですか」
「世界全部じゃない」
ミレイアは言う。
「人が使ってる側の主要術式網。王都周辺と主要都市、転移施設、外縁結界、治癒系統、災害抑制系。全部ここで監視してる」
監視。
外縁結界。
主要術式網。
言葉の組み方が完全に運用現場だった。
「これ、全部人が管理してるんですか」
「してるというより、しがみついてる」
ミレイアの口調は淡々としていたが、その淡々さの底に疲れがあった。
「設計者はもういない。原式典もほとんど失われてる。神殿上層部は“神の加護”って言えば済むと思ってるけど、現場は毎日違う。地脈は揺れるし、結界は欠けるし、古い転移門は勝手に軋む」
翔太は盤面の一角を見た。
王都外縁を囲う薄青い線の一部が、ところどころ明滅している。
「あれは」
「結界維持率の低下」
ミレイアが即答する。
「最近ひどい。夜間にだけ落ちる箇所もある」
夜間にだけ。
その言葉に、翔太の背中が冷たくなる。
オフィスの不具合と、あまりにも響き合いすぎていた。
「保守局って、何人いるんですか」
「常勤で三十七。まともに深層まで触れるのは七。原式典を読めるのは三」
「少ないですね」
「少ないよ」
ミレイアは即座に言った。
「しかも上は増やさない。保守は儀式の補助くらいにしか思ってない」
その愚痴はあまりに生々しく、翔太は思わず自分の会社を思い出した。
作る側より、直す側の人手はいつも足りない。
壊れたときだけ重要になる。
だが壊れていない時間の価値は、予算に換算されにくい。
「似てる……」
気づくと呟いていた。
「何が」
「前の職場と」
ミレイアは一瞬だけ、ほんの少し笑った。
それは初めて見る表情だった。
「でしょうね。どこの世界でも、保守は後回し」
その言い方があまりにも自然で、翔太は逆に怖くなった。
どこの世界でも。
つまり彼女にとっては、この世界の構造的不条理は、すでに普遍のものとして整理されているのだ。
そのとき、部屋の奥から高い警告音のようなものが鳴った。
誰かが「東門系が落ちる!」と叫ぶ。
数人が同時に走る。
ミレイアも振り向きざまに舌打ちした。
「ちょうどいい。見て」
翔太がついていくと、別の盤面の前で術官たちが慌ただしくやり取りしていた。
東門系と呼ばれた区域の転移接続線が、明滅しながら赤へ近い色に変わっている。
一人が術式板を差し込み、別の一人が記録をめくる。
誰も優雅に呪文など唱えない。
確認。切り分け。暫定対応。
やっていることは、完全に障害対応だった。
「入力側は?」
「東門施設から維持圧の低下報告!」
「地脈偏差は?」
「規定範囲内、でも瞬間ノイズが多い!」
「再起動かけるな、接続先がずれる!」
その声の応酬を聞きながら、翔太の胸の奥で、奇妙な静けさが広がっていくのを感じた。
怖い。
状況は何もわからない。
異世界で、自分は何の権限もない。
それでも、この混乱の文法だけは知っている。
知ってしまっている。
ミレイアが盤面に手を触れ、何かを確認する。
その横顔は張り詰めていた。
「……施設側じゃない。受け側が歪んでる」
「受け側?」
翔太は思わず聞き返した。
ミレイアが短く答える。
「門は一方だけじゃ開かない。受ける側の座標がずれれば、送る側が正常でも失敗する」
その瞬間、翔太の脳裏に、オフィスの画面で見た文字列が閃いた。
座標再解釈に失敗しました。
あれはただの謎の文言ではなかった。
少なくとも、この世界では意味を持つ。
「それ、どこかで聞いた顔ね」
ミレイアが気づく。
翔太は迷った。
だがもう黙っていられなかった。
「座標の再解釈に失敗した、っていう文を見たことがあります」
周囲の空気が一瞬止まる。
近くにいた術官の一人が顔を上げた。
ミレイアだけは目を細めただけで、声を荒げなかった。
「どこで」
「……こっちに来る前」
それ以上は言えなかった。
言葉にしようとすると、会社のオフィスとこの盤面が同じ地平に並んでしまいそうだった。
ミレイアは数秒だけ翔太を見つめ、それから言った。
「あとで詳しく聞く。いまはこれを戻す」
その一言で現場は再び動き出した。
翔太は一歩下がり、彼らの作業を見ていた。
見ているだけの立場なのに、胸の奥では何かがはっきりしていく。
ここは神話の世界ではない。
少なくとも、現場に立っている人間たちにとっては。
ここは、壊れかけた基盤の上で明日を維持しようとしている職場だ。
その認識は、恐怖とは別の感情を連れてきた。
ほとんど職業病に近い種類の、引き寄せられる感覚だった。




