第十一話 例外処理された異邦人
最初に戻ってきたのは、痛みではなく匂いだった。
焦げた石と、湿った土と、鉄錆に似た乾いた匂い。
それが鼻の奥に差し込んできたとき、翔太は自分がまだ生きていることを知った。
次に、冷たさ。
背中が硬い地面に触れている。いや、地面というより石床だ。表面はひび割れていて、薄く水気を帯びている。指先に触れた砂は細かく、オフィスの床に積もる埃とはまるで質が違った。
目を開ける。
視界はしばらく白く滲んでいた。
モニターの残像が網膜に焼きついたみたいに、世界の輪郭が定まらない。
ゆっくりと焦点が合っていくにつれ、自分が見たことのない場所にいることだけが、かえってはっきりしてきた。
高い天井。
いや、天井は半分崩れていた。
円形の石造建築の内側らしく、周囲には太い柱が等間隔に立ち、その半分は途中で折れている。足元には割れた石板が散り、床には巨大な円陣のような刻線が刻まれていた。
その線はただの装飾ではない。
翔太は見た瞬間にそう思った。
配線に似ている。
あるいは回路図。
いや、もっと古くて、もっと身体的な何かだ。文字と図形と命令が一体化したような、見慣れない記述体系。
起き上がろうとして、右肩に鋭い痛みが走った。
息が漏れる。
頭も重い。耳鳴りがまだ続いていた。
「動くな!」
声が飛んできた。
反射的に振り向く。
崩れた柱の向こうから、数人の人影が現れた。
布と革を重ねたような服装。長い槍。剣。
少なくとも日本のどこかで見る格好ではない。映画の撮影か何かだ、と一瞬だけ思った。だが、その考えは自分でも驚くほどすぐ消えた。
そんな言い訳は、この光の色に通用しない。
空が違った。
曇天に近い灰色なのに、どこか青みが薄い。
空気の密度そのものがずれているような、妙な遠近感がある。
槍を構えた男が、距離を取りながら言った。
「言葉はわかるか」
翔太は答えようとして、喉がひどく乾いていることに気づいた。
掠れた声で、ようやく言う。
「……わかります」
その瞬間、男たちのあいだにわずかなざわめきが走った。
背後にいた若い女が、一歩前へ出る。
灰色がかった青の外套。肩口に銀糸の刺繍。髪は濃い茶色で、ひとつに束ねられている。年は二十代前半に見えた。
彼女の目は、警戒しながらも、恐れてはいなかった。
「共通語が通じる」
彼女はそう言って、翔太の顔をじっと見た。
「あなた、自分がどこから来たかわかる?」
その問いに、翔太は答えられなかった。
いや、答えはある。会社だ。東京だ。オフィスだ。
だが、その答えは目の前の現実に対してあまりにも弱かった。
「……会社にいました」
言った瞬間、自分でもおかしかった。
会社にいた。
それは正しいのに、正しくない人間の言葉みたいに聞こえる。
槍の男のひとりが低く言う。
「やはり転移者か」
「黙って」
女は短く制した。
その言い方には慣れがあった。
彼女は状況に驚いているのではなく、こういう場面を知識として持っている。あるいは何度か見たことがある。
「立てる?」
翔太はうなずき、ゆっくり体を起こした。
立ち上がると、膝がわずかに震える。視界が一度揺れたが、倒れるほどではない。
服装は会社にいたときのままだ。シャツ。スラックス。薄いジャケット。社員証は胸元でねじれている。
その社員証を見た槍の男が、奇妙な目をした。布でも革でも金属でもないものを見た顔だ。
「それは身分証か」
翔太はとっさに首元を押さえた。
社員証のプラスチックが、ひどくこの場にそぐわない。
名前、会社名、番号。
それがまだ自分をこちら側に繋いでいる最後の記号のように思えた。
「たぶん……そうです」
女はそれ以上詮索せず、周囲へ指示を出した。
「武器は持ってない。拘束は不要。だが施設の外へ出す前に神殿へ連絡を。転移陣の再起動は?」
後ろにいた年配の男が答える。
「不安定です。さっき一瞬だけ光った。もう消えてる」
転移陣。
再起動。
その言葉が、翔太の耳に異様に引っかかった。
まるでIT現場の障害報告みたいな話し方だった。
女は床の刻線へ視線を落とし、眉をひそめる。
「維持式が崩れてる。この状態で人が来るのはおかしい」
維持式。
その単語に、翔太の心臓が一拍遅れる。
オフィスの画面に出た文字列。
維持式低下。
「……それ」
気づくと、口にしていた。
女が振り向く。
「何」
「その、維持式って……」
言葉を選ぼうとして、選べない。
どう言えばいいのかわからない。
画面の中で見た、と言って通じるのか。
女は翔太をまっすぐ見ていた。
警戒と観察が半分ずつ混ざった目だ。
「知ってるの?」
「いえ。知ってるっていうか……見たことがある気がして」
槍の男たちがまたざわつく。
だが女だけは沈黙したまま、翔太の顔から視線を外さない。
やがて彼女は低く言った。
「その話は神殿で聞く」
彼女の指示で、翔太は崩れた施設の外へ連れ出された。
外には草の匂いが濃く、遠くに石造りの街並みが見えた。白ではなく、少し黄みを帯びた石。屋根は黒に近い青。
街の背後には巨大な壁のようなものがあり、その上を淡い光の膜が流れていた。
結界、と直感で思う。
説明されなくてもそうわかる光だった。
施設から街までの道中、翔太はほとんど何も話さなかった。
話せば何かが本当になってしまう気がした。
異世界。転移。神殿。
そういう言葉でしか説明できない場所に、自分はいまいる。
それを認めると、東京のオフィスはまるで遠い夢みたいに薄くなる。
街に入ると、通りの人々が露骨にこちらを見た。
槍持ちの兵士。見慣れない服装の若い男。
その組み合わせは、この場所でも十分に異物らしい。
「見るな、散れ」
先導していた兵士が言うと、人々はあからさまに視線をそらした。
だが、そのそらし方がかえって恐怖を示している。
転移者という存在は、歓迎されるものではないのだと、翔太はその時点で理解した。
神殿は街の中央近くにあった。
白く大きい建物を想像していたが、実際はもっと実務的な造りだった。石造りの巨大な庁舎に近い。階段が広く、出入りする人間が多い。
祈りの場所というより、手続きと命令が集まる場所に見えた。
案内された部屋で、ようやく水を与えられる。
木の器から喉へ流れ込んだ水は少し鉄っぽく、だが生き返るほど冷たかった。
「名前は?」
女が机の向こうで問いかける。
彼女は先ほどよりも近くにいた。
改めて見ると、華奢に見えるのに、姿勢に妙な無駄がない。実務に慣れている人間の座り方だった。
「佐藤翔太」
「サトウ、ショウタ」
発音を確かめるように繰り返す。
「私はミレイア。神殿保守局の術官補佐」
保守局。
その単語だけで、翔太は思わず顔を上げた。
「保守……」
ミレイアが眉をわずかに動かす。
「何かおかしい?」
「いえ。ただ、その言い方が……」
何と言えばいいのかわからなかった。
異世界に来てまで、保守という言葉を聞くとは思わなかった。
「あなたは転移施設の崩落区画から出てきた。記録にない経路。維持式は不安定。普通なら死んでいてもおかしくない」
ミレイアは机の上の石板めいた記録具に何かを書き込みながら言った。
「だから確認する。あなたは召喚者? それとも偶発転移者?」
「違いがあるんですか」
「大きくある」
言い方が即答だった。
翔太は乾いた唇を舌で湿らせる。
「俺は……呼ばれたつもりはないです」
「つもり、ね」
ミレイアは小さく頷く。
否定も肯定もしない。
その態度が、かえって厄介な分類の存在なのだと示していた。
「最後に何を見た?」
翔太は目を閉じた。
白い画面。黒い背景。
()
Enter。
木村の口の形。
戻れ。
「コードを見てました」
ミレイアの手が止まる。
「コード?」
「命令文みたいなものです。……こっちの言葉で何て言えばいいのかわからないけど、文字の並びで、仕組みを動かすための……」
「術式記述?」
「たぶん、それに近いです」
ミレイアは机に置いた筆記具をそっと寝かせた。
その動作だけが、彼女の感情の揺れを表していた。
「あなた、本当に何者なの」
翔太は答えられなかった。
その問いは、こちらへ来る前からずっと答えられていない問いでもあった。
十九歳。専門学校卒。新人プログラマー。
それで通る世界から、もう落ちてしまった気がした。
ミレイアはしばらく翔太を観察してから、ようやく言った。
「今日は隔離室で休んで。明日、保守局の上に報告を上げる」
「帰れますか」
自分でも唐突な問いだった。
だが、口にせずにはいられなかった。
ミレイアの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「その質問を最初にする人は、まだまとも」
慰めではない。
ただの事実として、彼女はそう言った。
「答えは、今はわからない」
隔離室へ案内される途中、翔太は神殿の廊下を歩きながら壁際に刻まれた紋様を見た。
ただの装飾に見えるのに、どこかで理解が引っかかる。
分岐。循環。接続。
これは絵ではなく、処理の流れだ。
そう感じた瞬間、彼ははっきり悟った。
ここは未知の世界だ。
だが完全な異物ではない。
自分が知っている何かの延長でできている。
その認識が、ようやく恐怖を本物にした。




