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すぐ近くの茂みが揺れた。反射的に振り向く。風の揺らし方ではなかった。草の根元をかき分けて、何かがこちらへ近づいてくる。
息を殺して見つめていると、暗い葉陰から、一匹の生き物がゆっくりと姿を現した。
犬に似ていた。だが七海の知っている犬とは、どこかが決定的に違う。体高は大型犬ほど。灰色の毛並みはところどころが剥げ落ち、浮き出た肋骨が呼吸のたびに波打っている。口元からは黄色く濁った唾液が糸を引き、僅かに開いた顎の奥には、獣のものとは思えないほど長い牙が並んでいた。
そして、目。濁った赤い目が、真っすぐ七海だけを見ている。
「……犬?」
呟いた瞬間、獣が低く唸った。腹の底を震わせるその音に、背筋が凍る。腐った肉のような臭気が、風に乗って鼻をついた。犬ではない。こんな生き物が、地球にいるはずがない。
獣が鼻をひくつかせ、じりじりと間合いを詰めてくる。
七海は後ずさった。
「ちょ、ちょっと……待って。こっちに来ないで」
通じるはずもなかった。獣は口を大きく開き、喉の奥から唸りを漏らす。
その瞬間、七海は理解した。これは自分を襲おうとしている。
「いや……」
逃げなければ。そう思うのに、膝から下が自分のものではないように動かない。
獣が地を蹴った。
「きゃあっ!」
考えるより先に、身体が横へ跳んでいた。直後、灰色の塊がさっきまで七海のいた空間を裂いて通り過ぎる。爪が土を抉り、湿った土と枯れ葉が弾け飛んだ。
速い。今のをまともに受けていたら。その先を想像する前に、七海は腰の剣へ手を伸ばしていた。
柄を握る。手袋の中で汗がにじみ、掌が滑った。獣が振り返る。赤い目が、再び七海を捉えた。
「来ないで……!」
抜き放った刃が、木漏れ日を鈍く弾く。けれど、構え方など分からなかった。剣道の経験もなければ、刀を振るったことすらない。映画の主人公のように腰を落とす余裕もなく、両手で柄を握り締め、震える切っ先を獣の方へ突き出すのがやっとだった。剣は思っていたよりずっと重く、腕ごと前へ引きずられそうになる。
獣が、一度だけ地面を掻いた。
来る。
次の瞬間、赤い目が視界一杯に膨らんだ。
「うああああっ!」
無我夢中で剣を振った。狙いも型もない、ただ振り回しただけの一閃。それでも刃は何かを捉え、腕に鈍い抵抗が走った。毛皮を裂き、その下の肉へ沈んでいく感触。獣の肩口から、赤黒い血が湿った音を立てて飛び散る。
悲鳴が上がった。犬とも人ともつかない、耳を削るような声だった。七海はよろめきながら後ずさる。
「……っ、あ……」
剣を握る手が震えていた。切った。自分が、切ったのだ。刃には血が纏わりつき、鉄錆に似た匂いが立ち昇っている。
獣は倒れなかった。傷を負いながら、怒りに燃えるように唸り、ゆっくりとこちらへ向き直る。
「嘘でしょ……」
逃げ出したい。けれど背を向けた瞬間に飛びかかられる予感がした。
獣の前脚が、地面を蹴る。今度は、避けきれなかった。退こうとした踵が張り出した木の根に引っかかり、身体が大きく傾ぐ。その傾きが、皮肉にも命を拾った。顔を狙っていた爪は、七海の腕を浅くなぞっただけで空を切ったのだ。
金属を引っ掻く耳障りな音が、森に響き渡った。
「痛っ!」
反射的に腕を引く。衝撃が骨まで伝わり、指先がしびれた。七海は傷ついた鎧を見つめた。鈍い金属の表面に、白く削れた爪痕が走っている。爪が通った場所は歪み、あとほんの少し深く入っていれば、鎧そのものが裂けていたかもしれない。
あと少し。たった、それだけで。
鎧がなければ、今ごろ自分の腕はどうなっていただろう。想像した途端、喉の奥がひゅっと狭まった。目の前の化け物は、本当に自分を殺そうとしている。これは夢でも映画でもない。鎧に刻まれた傷が、その事実を何よりも雄弁に語っていた。
このままでは、死ぬ。湊を助けるどころか、自分がここで死んでしまう。
「いや……死にたくない……!」
声が震え、涙で視界が歪んだ。それでも七海は、剣を握り直した。死ねない。湊を助けると、決めたばかりなのだ。
獣が再び跳ぶ。七海は今度こそ、横へ身体を投げ出した。地面を転がり、肩を強かに打つ。肺の空気が一気に押し出され、視界に火花が散った。獣が向きを変えるまでの、ほんの束の間。七海は歯を食い縛って立ち上がり、両手で剣を構え直す。
構えと呼べるものではなかった。腕は痛み、呼吸は乱れ、心臓が耳元で暴れている。それでも、目だけは逸らさなかった。
「……来るなら、来なさいよ……!」
声は、情けないほどに震えていた。




