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獣が低く唸り、残った力を絞り出すように地を蹴った。
迫る牙。開いた顎の奥の、暗がり。七海は目を閉じたくなる衝動をねじ伏せ、剣を頭上から振り下ろした。
刃が、獣の首元に食い込んだ。鈍い衝撃が両腕を駆け上がる。肉を断つ抵抗の向こうで、硬いものに当たる感触があった。骨だ。生温かい血が顔に跳ね、獣の勢いに押されて、七海は後ろへ倒れ込んだ。
剣が、手から離れた。
獣は七海のすぐ傍らに崩れ落ち、苦しげに身体を痙攣させていた。裂けた喉から溢れた血が、灰色の毛を黒く染めて、土へ染み込んでいく。喉の奥で空気が泡立つような音が何度か続き、やがてそれも途絶えた。赤い目から、光が抜け落ちた。
森に、静寂が戻る。
七海は、暫く動けなかった。目の前には、血に塗れた獣の死骸が横たわっている。呼吸がうまくできない。胃の底からせり上がってくるものに、口を押さえた。耐えきれず、顔を背けて吐いた。何度かえずき、胃が空になってようやく、息が少しずつ戻ってくる。
涙で滲んだ視界の中で、自分の手を見つめた。剣を握っていた手。血に濡れた手袋。腕には、爪の痕が残っている。
痛い……怖い……気持ち悪い。今すぐ、すべてを投げ出して帰りたかった。
生き物の命を、自分の手で断ったのだ。その感触だけが、腕の内側にいつまでも居座っている。
「……何なのよ、もう……」
声が掠れた。
「何なの、ここ……」
答えてくれる人はいない。湊もいない。あの紳士もいない。見知らぬ森の中に、自分だけが取り残されている。
七海は震える手で剣を拾い上げ、鞘に収めた。
このままここにいても、何も始まらない。他にも、あの獣のような生き物がいるかもしれない。いつまでも立ち止まっているわけにはいかなかった。何度も深呼吸を繰り返して、どうにか立ち上がる。膝が笑っていた。腕も痛む。けれど、歩けないほどではなかった。
「……人を探そう」
自分を奮い立たせるように呟く。森の外へ出れば、何か見つかるかもしれない。人の住む場所があるかもしれない。元の世界へ帰る方法だって、誰かに訊けば分かるかもしれない。今は、それに賭けるしかなかった。
七海は剣を腰に携え、木々の間を歩き始めた。どちらへ向かえばいいのかも分からない。
ただ梢の隙間に、僅かに明るい方角が見えた。そちらを目指して進む。足元には木の根が張り出し、枯れ枝が散らばっている。鎧が身体に擦れるたび、耳慣れない金属音が鳴った。何度も転びそうになりながら、それでも足を止めなかった。
どれくらい歩いただろう。やがて木々の間隔が広がり、前方から風が吹き抜けてきた。森の匂いに、土とも草とも違う、開けた場所の匂いが混じっている。
七海は、目の前の枝をかき分けた。
そして。
「……え?」
思わず、足が止まった。
森は、そこで途切れていた。地面が大きく切れ落ち、崖になっている。吹き上げてくる風が髪を揺らし、鎧の隙間をすり抜けていった。七海は恐る恐る、崖の縁へ近づいた。
眼下には、見渡す限りの大地が広がっていた。
その中心に、一つの国があった。高い城壁に囲まれた街。石造りの建物が幾重にも連なり、赤や青の屋根が陽光を弾いている。街の中央には、ひときわ大きな城が聳え立っていた。城壁の外には畑が広がり、街へ続く道を、馬車らしきものが行き交っている。遠くでは川が光り、その向こうには緑の平原が続き、更に遠くで山々が青く霞んでいた。
七海の知っている景色とは、何もかもが違っていた。高層ビルも、電線も、車もない。代わりに石の街と城があり、その周囲に人々の暮らしが広がっている。ファンタジー映画の一場面のようだった。
いや、映画ならこんなふうに風が肌を刺すことはない。崖の下から吹き上げる風の冷たさも、遠くから届く鐘の音も、目の前に広がる景色の眩しさも。すべてが、本物だった。
「……本当に、異世界なんだ」
呟いた声は、風にさらわれて消えた。
七海は、剣の柄を握り締めた。ついさっきまで、ベッドの大きさを話していた。湊と笑っていた。それなのに今は、見知らぬ土地で血の付いた剣を握り、見たこともない国を見下ろしている。
何ひとつ理解できていない。何をすればいいのかも分からない。それでも来てしまった。湊を救うために。
あの街へ行けば、誰かに会えるだろうか。ここがどんな世界なのか、魔王とは何者なのか、元の世界へ帰る道はあるのか。それを教えてくれる人がいるだろうか。
一度だけ、背後を振り返る。深い森が、黒々と口を閉ざしていた。もう、戻ることはできない。
「……行こう」
声はまだ震えていた。それでも、一歩を踏み出す。
眼下の国には、人々の暮らしがあるのだろう。笑い声の響く家も、誰かの帰りを待つ人も、明日が来ることを疑いもしない人も。けれどその中に湊はいない。どれだけ探しても、ここにはいない。だから帰らなければならない。あの人が待つ世界へ。もう一度、あの人の隣に立てる場所へ。そのためなら、魔王だって倒してみせる。
剣を握った手を見下ろした。血に汚れた手袋は、乾きかけて強張っている。この手で、これから何をすることになるのだろう。何を知り、誰と出会い、何を手放すことになるのか。七海には、まだ見当もつかない。
ただ、右手の奥には、あの夜に握り締めていた温もりが、消えずに残っていた。
七海はそれを抱き締めるようにして、崖を下る道を探しながら、国の方へと歩き出した。




