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短編:婚約者と幸せな未来を歩むはずだった私が、彼を救う条件として異世界転移して魔王討伐を命じられました)  作者: 佐武ろく


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 最初に感じたのは、土の匂いだった。

 湿った土と、青々とした草の匂い。頬に触れる冷たさに、七海はゆっくりと目を開けた。


「……ん」


 視界一杯に、緑が広がっていた。頭上には、見たこともないほど大きな木々が枝を伸ばしている。葉の隙間から差し込む光が、地面に複雑な影を落としていた。少し離れたところで、鳥の鳴き声らしきものが響いている。

 七海は暫く、その場から動けなかった。ここはどこだろう。どうして自分は、地面に寝転がっているのだろう。

 そう考えた途端、横断歩道の光景が脳裏に蘇った。迫ってくるトラック。止まった世界。顔の分からない紳士。

 そして魔王を倒せば湊を救えるという、信じがたい話。


「……っ!」


 勢いよく上体を起こした。


「湊!?」


 隣を振り返る。誰もいなかった。伸ばした手が、虚しく空を切る。


「……湊?」


 もう一度、名前を呼んだ。返事はない。当たり前だ。ここには、自分しかいない。そう理解した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


「嘘……」


 慌てて立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、再び地面に手を着いた。そこで初めて、自分の格好がおかしいことに気づいた。


「……何、これ」


 身体を覆っているのは、見慣れた服ではなかった。胸から腹にかけて金属の鎧が装着され、肩にも腕にも防具がある。下半身には、動きやすそうな布と革の装備。手には革の手袋まで嵌められていた。試しに腕を動かすと、金属の擦れる音がした。


「えっ……ええ?」


 自分の身体を見下ろしたまま、何度も瞬きをする。コスプレ? いや、こんな精巧な鎧を着せられた覚えはない。

 夢だろうか? 逃避するようなその考えが、分かっているのにどうしても拭えなかった。事故に遭って意識を失い、今は病院のベッドで眠っている。これは、その間に見ている夢なのかもしれない。

 けれど頬を撫でる風も、草を踏んだときの感触も、鼻をくすぐる土の匂いも、あまりに生々しかった。

 頬を抓ってみる。


「痛っ……」


 痛かった。夢なら、もう少し手加減してほしい。そんな場違いなことを考えた直後、足元で何かが鈍く光った。

 視線を落とすと、すぐそばの草むらに、一本の剣が横たわっていた。鞘に収まった、片手でも扱えそうな剣だった。


「……剣?」


 恐る恐る手を伸ばし、柄を握る。思っていたよりもずっと重かった。鞘から少し引き抜くと、鈍い光を帯びた刃が姿を現す。テレビや映画で見たことのある、いかにも武器といった形をしていた。

 七海は慌てて剣を鞘に戻した。


「いやいやいや……」


 本当に、異世界に来てしまったのだろうか。魔王を倒せば湊が助かる。あの紳士は、確かにそう言った。

 けれど異世界とは何なのか。魔王とは何なのか。どうして自分が鎧を着ているのか。そもそも、どうやって元の世界へ帰ればいいのか。何ひとつ分からない。


「……とりあえず、落ち着こう」


 自分に言い聞かせるように呟いた。まず、ここがどこなのかを確かめる。それから、人を探す。人がいれば、何か事情を知っているかもしれない。魔王だの異世界だのという話は、それから考えればいい。鎧の腰に吊り具があるのを見つけて、剣をそこへ差し込み、深く息を吸った。

 その時だった。――ガサッ。


「……え?」

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