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「……嫌だ」
掠れた声と一緒に、泪が零れ落ちた。
「そんなの、嫌……」
七海は湊の手を、両手で包み込んだ。温かい。まだ、ここにいる。腕を伸ばせば触れられる距離にいるのに、このままでは二度と話すことも、笑い声を聞くこともできなくなる。
「私……湊と、結婚するんです」
誰に聞かせるともなく、そう呟いていた。
「約束したんです。これからもずっと一緒にいようって……」
声が震える。泪で目の前が滲んだ。
「まだ、何も始まってないのに……」
結婚式も。二人で暮らすはずの新しい家も。その先に続くはずだった、何十年もの日々も。何ひとつ、まだ手に入れていない。
それなのに全部失ってしまう。そんなのは嫌だった。絶対に、嫌だった。
「……私、行きます」
七海は顔を上げ、男を見据えた。恐怖は少しも消えていない。異世界も、魔王も、何ひとつ理解できていない。自分に何ができるのかも分からない。それでも。
「その世界に行きます。魔王を倒せば、湊を助けられるんですよね?」
「はい」
「……なら、行きます」
男は、暫く黙っていた。
「本当によろしいのですね? 先ほども申し上げたとおり、向こうでの旅は危険を伴います。向こうで死ねば、あなたは死にます。向こうでの腕を失えば、魔王を倒したとしても元には戻りません。それでも、ですか?」
七海は唇を噛んだ。怖くないはずがなかった。
知らない世界へ行くことも、魔物と戦うことも、死ぬかもしれないことも。考えれば考えるほど、足がすくむ。
できることなら今すぐ家に帰って、湊と一緒に、今日のことを笑い話にしてしまいたかった。けれど、そんな未来はもう、目の前にはない。
「……怖いです」
七海は正直に答えた。
「何もわからないし、魔王なんて倒せる気もしません。どうすればいいのかも、全然わからない」
それでも、握った手だけは離さなかった。
「でも何もしないで湊がいなくなるのは、もっと嫌です」
泪を拭い、もう一度男を見る。
「私にできることがあるなら、やります。だから……湊を助ける方法を、ください」
男は、ゆっくりと頷いた。
「承知しました」
最初に聞いたときと変わらない、穏やかな声だった。
「では、水無瀬七海さん。あなたを、あちらの世界へお送りしましょう」
名乗った覚えのないフルネームを、男は当たり前のように口にした。それを問いただす余裕は、もう七海には残っていなかった。
男が杖を持ち上げる。先端に、小さな光が灯った。七海は思わず身構える。
「ま、待ってください。もう行くんですか?」
「えぇ」
「でも、私、何も……!」
聞きたいことは山ほどあった。異世界とはどんな場所なのか。どうやって魔王を倒せばいいのか。向こうへ行った自分はどうなるのか。湊は、本当に助かるのか。
けれど男は、僅かに首を傾けただけだった。
「ご安心ください。必要なことは、向こうで少しずつ知っていけばよろしいのです」
「そんな、いきなり……!」
「人生というものは、案外そういうものですよ」
親しげな声だった。
「準備が整ってから始められることばかりではありませんからね」
七海は何も言い返せなかった。納得したわけでも、安心したわけでもない。ただ、もう後戻りはできないのだと、どこかで悟っていた。
男が杖の先を地面へ向ける。
――コツン。乾いた音が静寂に落ちて、足元から淡い光が広がり始めた。
「……湊」
七海は、動かない恋人の横顔を見上げた。何も知らず、何も答えない顔。ついさっきまで笑っていたのに、こんな別れ方になるなんて想像もしなかった。
「待っててね」
泪が頬を伝った。
「絶対に、助けるから」
光が強さを増す。足元がふっと軽くなり、身体が浮き上がるような感覚に襲われた。
「……っ!」
思わず目を閉じた七海の耳に、最後に届いたのは、あの紳士の穏やかな声だった。
「それでは、よい旅を。水無瀬七海さん」
次の瞬間、意識が白い光に呑み込まれた。
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