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「湊……?」
湊は七海の方へ手を伸ばしかけた姿勢のまま動かなかった。開きかけた唇。見開かれた目。
「ねえ、湊。ちょっと……」
肩に触れようとして、指先が触れる寸前で止まった。怖かった。どうして動かないのか。どうして音がしないのか。どうして、自分だけが動けるのか。疑問ばかりが頭の中で渦を巻き、答えはひとつも浮かんでこない。
夢であってほしい。そう願いながら頬を抓ると、はっきりと痛んだ。もう一度周囲を見回しても、やはり何ひとつ動かない。
「……誰か、助けて」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
そのとき、――コツ、と硬い音が静寂を打った。
七海はびくりと肩を震わせた。コツ、コツ。音の消えた世界で、靴音だけが規則正しく近づいてくる。
振り返ると、道の向こうから、ひとりの男が歩いてくるところだった。黒いスーツに、ツバのあるハット。片手には古風な杖。まるで古い映画から抜け出してきたような紳士で、歩き方にも杖をつく仕草にも、慌てた様子がまるでない。止まった世界を、散歩でもするように横切ってくる。
男は横断歩道を悠々と渡り、七海の前で足を止めた。
「こんばんは。突然お邪魔して申し訳ありません」
帽子のつばへ指を添えて、丁寧に会釈する。七海は答えられなかった。この人は誰だろう。どうして普通に動いているのだろう。どうして、こんな状況でこれほど平然としていられるのだろう。
「あの……」
ようやく絞り出した声は、やはり掠れていた。
「ここ、どうなってるんですか……?」
「おや。やはり、かなり驚かれていますね」
「驚くに決まってるじゃないですか! だって、車が……人が、みんな……!」
声が裏返った。男は取り乱した七海を咎めるでもなく、止まったトラックへ静かに目を向けた。
「ええ。ご覧のとおり、時間を止めております」
「……は?」
あまりにもあっさりと告げられて、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「じ、時間を……止めた?」
「はい」
「そんなこと、できるわけ……」
言いかけて、七海は唇を噛んだ。できるわけがない。そんなことは分かっている。けれど、目の前の光景をほかにどう説明すればいいのだろう。
男が手品を仕掛けているのか。自分は気を失っていて、これは夢なのか。それとも事故の衝撃で頭がおかしくなってしまったのか。どれも馬鹿げている。それでも時間が止まったという話よりはまだ信じられる気がした。
「……あなた、誰なんですか」
男を睨むようにして尋ねる。警戒を込めたつもりの声は、情けないほど細かった。
「これは失礼。まずは名乗るべきでしたね」
男は胸元に手を当て、優雅に一礼した。
「私は――」
男の唇が、確かに何かを紡いだ。
聞き取れない言葉ではなかった。むしろ、ひとつひとつの音は不自然なほど鮮明に鼓膜へ届いた。七海の知らない外国語というわけでもない。聞いたことのない音の連なりでありながら、聞き取ること自体には何の不自由もない。
なのに。
「……えっ?」
名前が、理解できなかった。今たしかに聞いたはずなのに、どんな名だったのか思い出せない。忘れた、というのとは違う。
そもそも意味として頭の中に入ってこなかったのだ。
「……すみません。もう一度、お願いします」
「もちろんです」
男は先程とまったく同じ調子で名乗った。七海は今度こそと耳を澄ませる。
やはり、聞こえる。けれど分からない。
音は届いているのにそれが名前の形を結ばない。頭のどこかで、その言葉にだけ意味を持つことを拒まれているようだった。
「……何て?」
思わず聞き返すと、男は僅かに首を傾げた。
「おや。これは珍しい。人間の方に私の名をお伝えしても、なかなか理解していただけないことはありますが……」
ひとり合点したように頷く。
「まあ、今はよろしいでしょう。呼びにくければ、好きなように呼んでいただいて構いませんよ」
「いや、そういう問題じゃ……」
七海は困惑したまま、せめて顔だけでも覚えておこうと男を見上げた。そして、違和感に気づいた。




